ニューヨークを舞台に危機的状況が勃発して、ただひたすら逃げまどう群集にファインダーを合わせるという行為は、2001年9月11日以降どうしたって同時多発テロを想起させてしまう訳だが、J・J・エイブラムスにそのような政治的信条は皆無のようだ。
パンフレットによると、『M:i:III』のプロモーションで日本を訪れた際、原宿のキディランドでゴジラのフィギュア人形を見かけたことから、『クローバーフィールド』の着想を得たらしい。
「9.11」的シチュエーションは、ポリティカル・メッセージでも何でもなく、あくまでプロットを起動させる装置として導入されたに過ぎない。
J・J・エイブラムスがプロデュースした人気ドラマ『LOST』で、「何だか良く分からないけれど、この島にはスーパーナチュラルな力が宿っているらしい」という、超アバウトな設定のみを提示し、何の説明もなく第1シーズンを終わらせてしまった例に象徴的なように(僕はそれで飽きてしまって第2シーズン観てないんですが)、彼は純粋なマクガフィンの信奉者である。
『M:i:III』のレビューでも書いたような気がするが、マクガフィンとはサー・アルフレッド・ヒッチコックによって考案されたとされる、作劇上の仕掛けであり、劇中人物にとっては極めて重要で、それを巡って物語が展開されていく「何か」のことだ。
従って、ニューヨークを蹂躙するHAKAISHAがなにものなのか、どのように生まれたのか、なぜ街を襲うのかという説明は一切明示されない。余計な説明シーンを挿入して物語が停滞するよりも、常にトップギアでダイナミズムを持続させることを選択している。
よくシナリオ学校では、プロットを書き出す際に5W1Hをきちんと設定しておくが大切ですよーみたいなことを言うが、『クローバーフィールド』は、情報を与えないことによって、観客の飢餓感・好奇心を煽るという戦略がとられているのだ。
「情報を与えない」というコンセプトは、徹底した秘密主義を貫いたプロモーションにも活かされている。あえてコンテンツを伏せることによって、映画館に足を運ばせるという方法論は、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』的手法といってもいい。
しかし『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が公開された1999年と異なり、今やその情報はネットを介して掲示板やブログで伝播される時代となった。
そこで優れた広告宣伝マンでもあるJ・J・エイブラムスは、youtubeで断片的な動画をアップしたり、「タグルアトなる日本企業の海底油田採掘場が、何者かによって破壊される」という偽ニュースをネットで配信するなど、情報に飢えているユーザーの飢餓感を、さらにあおるような仕掛けをネット上で展開。
『クローバーフィールド』という“大きな物語”にアクセスするための“小さな物語”をばらまき、コンテンツ訴求をグローバルに押し進めた。
本作は、言ってしまえば『フレンズ』とか『ビバヒル』のような若い男女の甘ったるい青春グラフィティーに、『ゴジラ」のような作劇的仕掛けを施し、それを『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような手ブレビデオカメラ的手法(フェイク・ドキュメンタリー)で描くという、マッシュアップ・ムービーである。
映画内に散りばめられているシークエンスも、お約束と映画的引用に満ちている(頭部のない自由の女神というカタストロフ的イメージなんぞ、過去何度観させられただろうか)。
それを面白いと思うかつまらないと思うかは、おそらくJ・J・エイブラムスが巧妙に仕掛けたイベントに熱狂できたか否かにかかっている。
- 原題/Cloverfield
- 製作年/2008年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/85分
- 監督/マット・リーヴス
- 脚本/ドリュー・ゴダード
- 製作/J・J・エイブラムス、ブライアン・バーク
- 製作総指揮/ガイ・リーデル、シェリル・クラーク
- 撮影/マイケル・ボンヴィレイン
- 編集/ケヴィン・スティット
- 美術監督/ダグ・J・ミーディンク
- 衣装/エレン・マイロニック
- マイケル・スタール=デヴィッド
- マイク・ヴォーゲル
- オデット・ユーストマン
- リジー・キャプラン
- ジェシカ・ルーカス
- T・J・ミラー
- ベン・フェルドマン
- ライザ・ラピラ
- クリス・マルケイ
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