2023/6/7

『東京ヒゴロ』(2019)徹底解説|再び漫画への情熱を取り戻す、中年ワンス・アゲイン

『東京ヒゴロ』(2019年/松本大洋)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
6
OKAY

概要

『東京ヒゴロ』(2019年〜2023年)は、松本大洋が大手出版社を早期退職した50代の元編集者・塩澤和夫の歩みを通じ、漫画という芸術の深淵と、クリエイターが抱える業を静謐かつ熱情的に描き出したヒューマン・ドラマの傑作である。一度は漫画の世界と決別しようとした塩澤の心に、手塚治虫や大友克洋ら「漫画の神々」の作品群が再び火をつけ、退職金を全額投じて理想のコミック誌を創刊するという無謀な挑戦が始まる。塩澤の孤軍奮闘を軸に、社会的重圧に押し潰されメンタルを削りながらヒットを飛ばす若き漫画家・青木や、かつての輝きを失いバッティングセンターでバットを振り続けるベテラン作家・みやざき長作など、業界の周辺で生きる人間たちの苦闘が、松本大洋ならではの独特の線と構図で浮かび上がる。

目次

50代からの再出発と、漫画の神々がもたらす引力

松本大洋による傑作漫画『東京ヒゴロ』(2019年〜2023年)。物語は、大手出版社を早期退職した50代の漫画編集者・塩澤和夫が、再び漫画への情熱を取り戻していく姿を描いた、極上の「中年ワンス・アゲイン(ONE AGAIN)」ものだ。

完全に漫画の世界と決別しようとしていた塩澤の心に再び火をつけたのが、手塚治虫や大友克洋、諸星大二郎といった「漫画の神々」が残した圧倒的な作品群を目にした瞬間だったという描写が、もう最高に良き!

退職金を全額注ぎ込んで、自分が本当に信じる理想のコミック誌を作ろうとするその無謀な情熱。同じく50歳という人生の節目で会社を辞め、フリーランスの文筆業という名の荒野へ飛び出した僕自身の人生と、彼のその不器用な歩みはどうしても痛いほど重なってしまい、こんなの泣くしかないだろうとページをめくりながら胸が熱くなった。

青木のリアルな苦闘と、愛すべきメタボ漫画家・長作

読み始めはてっきり、土田世紀の『編集王』(1994年)のような「熱血編集者にフォーカスした業界モノ」だと思っていた。しかし物語が進むにつれ、これはさまざまな漫画家たちが抱える葛藤と苦闘、そして底知れぬ業を描き出した、現代版『まんが道』(1977年)でもあることに気づかされる。

東京ヒゴロ
松本大洋

塩澤の孤軍奮闘を中心に据えながらも、実際には漫画業界の周辺で生きる多様な登場人物たちの人生に深く肉薄した、極めて群像劇的な広がりを持っているのだ。

とくに印象的なのが、思いがけず連載が大ヒットしてしまった新人漫画家・青木の姿だ。客観的に見れば大成功を収めているはずの彼が、殺人的なスケジュールと社会的責任の重圧に押し潰され、どんどんメンタルがやられていく描写は、正視できないくらいに生々しくリアルだ。才能と狂気の狭間でもがく彼の姿は、おそらく若き日の松本大洋自身を引き写した存在なのだろう。

一方で、個人的にたまらなく好きなキャラクターが、行き詰まったベテランのメタボ漫画家・みやざき長作だ。かつての輝きを失って苦悩する姿が切ないのだが、バッティングセンターに通ってバットを振るその丸っこいフォルムは、松本大洋の初期傑作『花男』(1991年)を彷彿とさせて、ファンとしてはたまらない愛おしさを感じてしまう。

創造の苦難と道程を肯定する青臭い情熱

「本を完成させることではなく、創造をする苦難の中に、その道程にこそ、喜びがある」。

劇中でこんな青臭いセリフを真っ直ぐにのたまう塩澤が、スーパーかっこいい。情報が消費され尽くす現代において、ここまで漫画への純粋な情熱と、泥臭く青臭い信念を全肯定してみせた作品が他にあるだろうか。

塩澤の狂気とも言える漫画愛を描き切るために、全3巻という密度の濃い時間を走り抜けた松本大洋の圧倒的な作家性には、ただただ最大級のリスペクトを捧げるしかない。

作品情報