『赤目四十八瀧心中未遂』(2003)
映画考察・解説・レビュー
『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年)は、荒戸源次郎監督が車谷長吉の同名小説を映画化し、第60回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に正式出品された作品。物語は、社会に馴染めず漂流する青年・与一(大西滝次郎)と、どこか影を帯びた女・綾(寺島しのぶ)の出会いによって動き出す。ふたりは都市を離れて過去から逃げるように旅を続けるが、互いへの依存が深まるほどに破滅の影は濃くなっていく。やがて赤目四十八瀧へ辿り着いた彼らの関係は、救いを求める愛ではなく、静かに消滅へ向かう共犯関係として結晶する。
荒戸源次郎が継承した“清順の血”
『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年)は、タイトルの時点で既に耽美と退廃の香りを放っている。浪漫主義的であり、大正デカダンス的であり、死を美の極点に置く感性が支配している。
監督は鈴木清順の「デカダン三部作」──『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)──をプロデュースしてきた荒戸源次郎。さらに坂東玉三郎の『外科室』(1992年)にも携わった、日本映画界の裏側を知り尽くしたフィクサーである。
彼が清順の系譜を自らのカメラで継承したとき、そこに生まれたのは、老成ではなく“継承の暴力”だった。つまりこの映画は、映像的快楽と死への衝動を等号で結びつける行為そのものがテーマなのである。
荒戸の視線は老練でありながら、あくまで反骨的だ。映像の中に流れるのは、血ではなく濃密な闇。『赤目四十八瀧心中未遂』は、“男が女に奪われる映画”であり、奪われることによってのみ生を実感する者の物語だ。
反復の詩学──「胡蝶の夢」としての映像
主人公・生島与一(大西滝次郎)は、有名大学を卒業しながら堕落の果てに辿り着いた敗残者である。彼は古びたアパートの一室で臓物を捌き、モツを串に刺すだけの生活を繰り返している。
そこに現れるのが、妖艶な女・綾(寺島しのぶ)。彼女は与一を“奪う”ために存在している。肉体を奪い、金を奪い、通帳を奪い、希望を奪う。そして最後には「私、生きてみるわ」と言い残し、彼から“死の幻想”までも奪い去る。
彼女の一言──「この世の外へ」──は、男を虚無へ誘う呪文である。しかし彼は結局“外”に出られない。赤目四十八瀧の土管の中でうごめくガマガエルのように、与一は世界の内部に閉じ込められる。
荒戸はこの“閉じ込め”の感覚を、緩慢な手持ちカメラの揺れと、反復的な構図で描き出す。与一が堕ちていくのではない。むしろ、堕ちることすらも拒否されたまま、終わりのない下降運動を続けるのだ。
『赤目四十八瀧心中未遂』は、出来事を積み重ねるのではなく、同じ瞬間を何度も反復する映画である。歩く、止まる、見返す、また歩く。その単調な反復のリズムの中で、観客は徐々に現実感を失っていく。
とくに印象的なのは、赤目四十八瀧の参道を歩く二人のシークエンスだ。上手から下手へ、次のカットでは下手から上手へ──。構図の反転が延々と繰り返される。そこに物語的推進力はなく、ただ一定のリズムだけが存在する。
この反復は荘子の「胡蝶の夢」への明確なオマージュである。荘周が夢の中で胡蝶となり、目覚めてもなお“自分が蝶なのか人なのか分からない”というその思想は、映画というメディアの根源的構造と重なる。
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった
喜々として胡蝶になりきっていた自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた
荘周であることは全く念頭になかった
はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないかところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、
自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、
いずれが本当か私にはわからない荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ
しかし主体としての自分には変わりは無く、
これが物の変化というものである
映画とは、覚醒と夢想の境界を往復する視覚の運動にほかならない。荒戸はこの哲学を、ナラティヴではなく構造そのもので具現化した。観客は、与一の夢を見ているのか、与一が観客の夢の中にいるのか分からなくなる。映画が終わっても、その夢からは目覚められない。
反現実としての“心中”──甘美の剥奪
心中とは、恋愛映画における最も古典的で美しい死の形式だ。しかし本作は、その甘美さを容赦なく剥奪する。与一と綾は“死”によって結ばれるはずだった。
だが彼女は生を選び、与一だけが取り残される。この逆転は、心中という形式そのものの崩壊である。死がロマンではなく、無為な現実として描かれるとき、そこに残るのは「終われない生」の苦痛だ。
荒戸のカメラは、その“終われなさ”を静かに凝視する。寺島しのぶが木漏れ日の中を歩くショット、手持ちのブレ、微光に照らされる肌。そこにあるのは死の予兆ではなく、繰り返しのうちに摩耗していく生命の痕跡だ。
映画が静止することなくループを刻むとき、観客は時間を失い、物語を失い、ただ“存在の反復”だけを体験する。
現実の夢、夢の現実──荒戸源次郎の形而上学
ファーストカットとラストカットに現れる、蝶を追う少年。彼は現実と夢のはざまを繋ぐ媒介者である。映画の始まりと終わりが同一のモチーフで挟まれていることで、作品全体が無限循環の構造を持つ。
夢の中で蝶になる荘周のように、与一もまた自分が生者なのか死者なのか分からない。『赤目四十八瀧心中未遂』とは、夢の中に閉じ込められた現実の物語なのだ。
周囲のキャラクターたちは現実の歪みとして配置される。隣人として登場する内田裕也は、まるで現実そのものが狂気を帯びた寓話であるかのように存在する。彼の出現が説明されないのは当然だ。映画全体が“説明できない現実”の連鎖だからである。
この世界は此の世か、あの世か。現実か、夢か。荒戸はその問いに答えない。答えのない反復を延々と続けること、それこそが生であり、映画であり、エロスなのだ。江戸川乱歩が書き残した「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という言葉が、まさにこの映画の背骨を成している。
此処はこの世の内なのか、此の世の外なのか。いや、そもそも此処は現実なのか、夢の世界なのか。『赤目四十八瀧心中未遂』は、愛する者と一緒に死を迎えるという甘美な「心中」を剥奪し、ひたすらミニマルな反復描写を施すことによって、摩訶不思議な非現実感が生成されている。
お隣さんに、内田ロケンロール裕也がいようが、『オー!マイキー』を地でいくようなアッパラパー夫婦がいようが、なんだってオーケー。かの江戸川乱歩センセイもおっしゃってるではないか。
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」と…。
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