2025/11/21

『赤目四十八瀧心中未遂』(2003)徹底解説|反復と奪取のエロス

『赤目四十八瀧心中未遂』(2003)
映画考察・解説・レビュー

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概要

『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年)は、荒戸源次郎監督が車谷長吉の同名小説を映画化し、第60回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に正式出品された作品。物語は、社会に馴染めず漂流する青年・与一(大西滝次郎)と、どこか影を帯びた女・綾(寺島しのぶ)の出会いによって動き出す。ふたりは都市を離れて過去から逃げるように旅を続けるが、互いへの依存が深まるほどに破滅の影は濃くなっていく。

目次

荒戸源次郎が継承した“清順の血”と“路地の汚濁”

『赤目四十八瀧心中未遂』(2003年)は、タイトルの時点で強い。なんたって、「赤目」で「四十八瀧」で「心中」で「未遂」だ。この漢字の羅列から漂う、むせ返るような耽美と退廃の香り!

おまけに監督を務めるのが、荒戸源次郎。鈴木清順の「大正浪漫三部作」──『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『夢二』(1991年)──をプロデュースし、日本のインディペンデント映画界を裏側から牛耳ってきた最後のフィクサーである。

ツィゴイネルワイゼン
鈴木清順/span>

清順美学の最も近くにいた男が、自らメガホンを取ったとき、そこに生まれたのは清順のエピゴーネンではなかった。清順が描いた死の美学を継承しつつ、それを大正ロマンの着物から剥ぎ取り、昭和の薄汚い路地裏へと引きずり込んだ、継承の暴力だったのだ。

舞台は尼崎。主人公・生島与一(大西滝次郎)は、有名大学を出ながら、社会のレールから脱落し、焼き鳥用の臓物を串に刺すだけの生活を送っている。彼が住むアパート「尼崎の都荘」は、吹き溜まりのような場所だ。

荒戸監督は、この薄汚い空間を、まるで極彩色の歌舞伎の舞台のように演出する。壁のシミ、裸電球の揺らぎ、そして飛び交う関西弁の罵倒。

これらはリアリズムではない。清順映画が持っていた「あの世とこの世の境界線」の空気を、ドブ川の底から汲み上げたような、独自の荒戸美学なのだ。

映像の質感にも注目。撮影監督は、後に『キャタピラー』などを手掛ける川上皓市。彼のカメラは、常に湿り気を帯びている。画面全体が緑色がかったフィルターに覆われ、登場人物たちは水槽の中の魚のように、あるいはホルマリン漬けの標本のように、閉塞した時間の中を泳いでいる。

荒戸源次郎にとって、映画とは光を描くものではなく、闇の濃度を描くものだったのではないか。男が女に何かを奪われる映画であり、奪われることによってのみ、逆説的に“生”を実感する敗残者たちの賛歌なのである。

寺島しのぶという“魔物”──菩薩か、夜叉か

寺島しのぶが演じる綾という女性は、日本映画史に残るファム・ファタールであり、同時に全てを包み込む菩薩でもある。

綾は、昼はもつ焼き屋で働き、夜は彫師としての顔を持つ。彼女の背中には見事な刺青(弁天小僧菊之助)が彫られている。寺島しのぶは、この役のために実際に背中に絵を描かせ、激しい濡れ場にも一切の躊躇なく挑んだ。

だが、それは単なる「脱ぎっぷりの良さ」などという陳腐な言葉では片付けられない。彼女の脱衣は、エロスを超えて肉塊としての圧倒的な存在感を放っている。

彼女の白く、少し丸みを帯びた肢体が、薄暗いアパートの畳に横たわるとき、そこには死の匂いと生の熱気が混然一体となって渦巻くのだ。

特に印象的なのは、彼女が与一の背中に針を入れるシーン。血が滲み、痛みが走る。その痛みこそが、死んだように生きていた与一にとっての唯一の現実となる。

綾は与一から金を奪い、通帳を奪い、最後には魂まで奪い尽くす。しかし、観客は彼女を憎むことができない。なぜなら、彼女の瞳の奥には、与一以上の深い絶望と、それを超えた先のあきらめが宿っているからだ。

クライマックス、死への旅路の果てに彼女は「私、生きてみるわ」と言い放つ。それは、心中という甘美な逃避さえも拒絶し、泥沼の現実を這いずり回ることを選んだ女の、凄まじい“業”の肯定である。

寺島しのぶはこの一作で、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)をはじめ、国内の映画賞を総なめにした。それは当然の報いだ。彼女は演技をしたのではない。スクリーンの中で、綾として生き、そして我々の魂を食い殺したのだから。

内田裕也と“胡蝶の夢”

この映画を異界たらしめているもう一つの要素、それが隣人役の内田裕也である。彼が登場するシーンの、あの異様な空気感は何だ!

金髪の長髪にサングラス、そして意味不明な高笑い。彼は役を演じているのか、それとも内田裕也そのものとしてそこに居るのか、境界線が完全に溶解している。

荒戸監督は、このロックンローラーを「日常の中の非日常」として配置した。彼が演じる男は、背中に「南無阿弥陀仏」の刺青を背負い、包丁を持って暴れまわる。それは、与一が住む世界が、もはやまともな現実ではないことを示すランドマークなのだ。

映画の構造にも、荒戸の仕掛けた罠がある。 ファーストカットとラストカットに登場する、蝶を追う少年。これは荘子の「胡蝶の夢」への明確なオマージュだ。

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった
喜々として胡蝶になりきっていた

自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた
荘周であることは全く念頭になかった
はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか

ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、
自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、
いずれが本当か私にはわからない

荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ
しかし主体としての自分には変わりは無く、
これが物の変化というものである

与一と綾が赤目四十八瀧の参道を歩くシーン、カメラは彼らを執拗なまでの長回しと反復構図で捉える。上手から下手へ、下手から上手へ。同じような景色、同じような歩調。この無限ループのような映像は、彼らが既に「此の世の外」を歩いていることを示唆している。

彼らは死に場所を求めて旅に出た。しかし、綾の裏切り(あるいは救済)によって、心中は未遂に終わる。死ねなかった者たちはどうなるのか? 再びあの薄汚いアパートに戻り、臓物を刺す日々が続くのか?それとも、すべては与一が見た走馬灯だったのか?

荒戸源次郎は答えを提示しない。ただ、ラストシーンで再び舞う蝶の姿によって、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という江戸川乱歩的なテーゼを突きつけるのみ。

『赤目四十八瀧心中未遂』は、観る者を酩酊させる劇薬である。そこに映っているのは、ドブ川の中で必死に呼吸をする、愚かで、浅ましく、どうしようもなく愛おしい人間たちの生の断末魔なのだ。

作品情報
  • 製作年/2003年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/159分
  • ジャンル/ドラマ
スタッフ
キャスト
荒戸源次郎 監督作品レビュー