『バルタザールどこへ行く』(1966年/ロベール・ブレッソン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『バルタザールどこへ行く』(原題:Au Hasard Balthazar/1966年)は、一匹のロバの生涯を通して人間の罪深さと聖性を冷徹かつ崇高に描き出したドラマ。ピレネーの農村で少女マリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)に慈しまれたロバのバルタザールが、成長とともに強欲や虚栄、暴力に満ちた人間たちの間を転々と売られ、過酷な運命を静かに受け入れていく姿を映し出す。ドストエフスキーの小説『白痴』から着想を得たとされる本作は、非職業俳優の起用や、断片的な音響、そして説明を省いた禁欲的な編集といったブレッソン独自の映画術が頂点に達した一作。第27回ヴェネツィア国際映画祭では、審査員特別表彰を含む複数の賞に輝いた。
- 第27回ヴェネツィア国際映画祭:審査員特別賞、国際映画批評家連盟賞、カトリック事務局賞受賞
- 1966年度映画批評家協会賞(フランス):作品賞(メラリエス賞)受賞
- 第41回キネマ旬報(外国映画):第6位
聖なる受難とドストエフスキーの影
この映画には世界が、そのすべてが収められている
ジャン=リュック・ゴダールが『バルタザールどこへ行く』(1966年)に寄せたこの言葉は、決して大袈裟な賛辞じゃない。それまで厳格な様式美を貫いてきたロベール・ブレッソン監督が、「初めて自由に、即興性を交えて作ることができた」と語る本作は、映画史において最も崇高で、かつ最も残酷なロードムービーだ。
物語のインスピレーションとなったのは、フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』(1868年)。絶望の淵にいた主人公ムイシュキン公爵が、市場で聞いたロバのいななきによって魂を救われるというエピソードだ。しかし、ブレッソンはこのロバという象徴をドストエフスキーから借りながらも、そこにあったはずの救済を徹底的に削ぎ落とした。
主人公のロバ、バルタザールの名は、新約聖書の東方の三博士の一人に由来する。だが、彼を待つのは祝福ではなく、ひたすらな受難だ。子供たちに愛でられた幼少期を過ぎれば、農作業の道具、見世物小屋の芸人、密輸の運搬係へと、持ち主が変わるたびに暴力とエゴに晒される。
バルタザールは、人間の罪を黙って背負い続けるキリストの身代わりのようでもあり、救済を拒絶するこの世界の残酷さを静かに見つめる唯一の目撃者でもあるのだ。
そしてバルタザールの生涯を通り過ぎていく人間たちは、単なる登場人物を超え、キリスト教における「七つの大罪」を体現している。少女マリー(アンヌ・ヴィアゼムスキー)を破滅へ誘うジェラール(フランツ・ラファルジュ)は、傲慢と憤怒の化身だ。
観光客を酷使するアル中のアルノルド(ジャン=クロード・ギルベール)は怠惰。彼が突然の遺産相続に狂喜した直後、あっけなく命を落とす場面は、現世の富がいかに虚しいかを冷徹に物語る。
他にもエロジジイすぎる強欲な穀物商人や、プライドのために家族を壊すマリーの父など、愚かな人間たちがこれでもか!というくらいに次々と現れる。
ここで効いてくるのが、バルタザールという鏡の存在だ。ブレッソンは彼の眼を執拗に捉えるが、そこには一切の感情がない。しかし、暴力的な光景のあとにその無表情な瞳が映されるだけで、観客はそこに悲哀や慈しみ、あるいは人間への軽蔑を勝手に読み取ってしまう。
映画理論でいうクレショフ効果を、動物の無表情でやってのける。ゆえに、人間の内側に潜むエゴイズムがスクリーンに鮮烈に乱反射していくのだ。
自動人形のサスペンス
この時期のブレッソン作品が放つ強度は、ヒロインのマリーを演じたアンヌ・ヴィアゼムスキーの存在に集約される。ブレッソンは「演じること」を嫌い、職業俳優ではなく素人をモデルとして起用することにこだわった。
当時、ノーベル賞作家フランソワ・モーリアックの孫娘という高潔な家系にいた彼女に対し、ブレッソンは異様な演出を強いた。感情を込めることを禁じ、まばたきのタイミングや歩幅までを機械的に指定したのだ(彼女は自伝のなかで、“自分はロボットのように、あるいはバルタザールと同じ動物のように扱われていた”と振り返っている)。
だが、その感情を削ぎ落とした無表情こそが、彼女の顔に底知れぬ美しさとサスペンスをもたらした。辱めを受け、ボロボロになっても、彼女は泣き叫んだりしない。ただ虚無を見つめる瞳がフレームに収まるだけ。
変更なし: この冷徹な演出に魅了されたのが、撮影現場を訪れたゴダールだった。彼は彼女を自身のミューズとし、後に結婚することになる。このエピソードもまた、映画史におけるひとつの神話だろう。
引き算の編集美学と地獄のノイズ
ブレッソンの真骨頂は、映像における徹底した「省略」と「断片化」にある。彼は事件の全体像を映すのではなく、常にその「部分」を切り取る。特に際立つのが、登場人物たちの「手」への執着だ。
劇中では、顔よりも「手」が雄弁に物語を動かす。金銭を受け渡す手、バルタザールを鞭打つ手、あるいは優しく撫でる手。ブレッソンは人間の内面というあやふやなものを信じず、物理的な手と物の接触という事実だけをリズミカルに繋いでいく。これによって、ドロドロとした人間関係すらも温度を失った「物理現象」のように処理されるのだ。
このストイックな引き算のエディットは、観客に対してフレームの外で起きていることを想像力で補わせる。暴力の瞬間を直接見せるよりも、ドアの閉まる音や足音の断片だけで何が起きたかを突きつける。その手法が、映像の緊張感を極限まで高め、結果的にどんなホラー映画よりも恐ろしい人間の業の深さを際立たせることになる。
音響設計もまた、現代の感覚から見ても驚くほど先鋭的だ。劇伴として断片的に使われるのは、フランツ・シューベルトの『ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D.959』第2楽章。
この静謐で死の予感を感じさせる旋律が流れたかと思うと、次の瞬間、バルタザールの悲痛ないななきや、不良少年たちのバイクが上げるノイズが、容赦なくその静寂を切り裂く。
ブレッソンは、「目は耳よりも早く疲労する」という哲学を持っていた。映像で語れるものは、あえて音に託す。聖なるもの(シューベルト)と俗なるもの(排気音)、静寂と暴力、そして無垢なロバの叫びと罪深い人間の沈黙。
音響のレベルでこれほど強烈なコントラストを設計することで、観客の生理的な感覚を激しく揺さぶり、剥き出しの現実を突きつけてくる。この設計思想は、後のヴィム・ヴェンダースやミヒャエル・ハネケといった巨匠たちにも色濃く受け継がれている。
宗教的な救済
物語は、数学的なまでに完璧な円環構造を描いて幕を閉じる。冒頭、アルプスの麓で羊の群れに囲まれ、子供たちに愛されていた子ロバのバルタザール。彼は長い受難の旅路の果てに、ラストシーンで再び羊の群れの中へと帰っていく。
しかし、そこにあるのは安らかな休息ではない。銃弾を受け、重い荷を背負わされたまま、バルタザールは羊の群れの中で膝を折る。そこに広がるのは、圧倒的な静寂と、夕暮れの柔らかな光。
一頭のロバの死が、これほどまでに荘厳で、宗教的な救済を感じさせるのはなぜか。それは、彼が一生を通じて人間の罪をすべて引き受け、ただ沈黙のうちにそれを許した聖者として描かれているからだろう。
世界は不条理で、暴力に満ちている。だが、その中心に、ただ沈黙して耐え続ける無垢が存在すること。その存在を、カメラで正確に記録すること。ブレッソンは、映像という形式を極限まで研ぎ澄ますことで、この残酷な世界の中にある光を、奇跡のように掴み取ってみせた。
だからこそ、『バルタザールどこへ行く』を観るということは、一本の映画を鑑賞するという体験を超えて、自分自身の視線が浄化されていくような祈りに近いのである。
参考文献・出典
- 監督/ロベール・ブレッソン
- 脚本/ロベール・ブレッソン
- 製作/マグ・ボダール
- 制作会社/パルク・フィルム、アス
- 原作/フョードル・ドストエフスキー
- 撮影/ギスラン・クロケ
- 音楽/フランツ・シューベルト、ジャン・ウィエネル
- 編集/レイモン・ラミ
- 美術/ピエール・シャルボニエ
- スリ(1959年/フランス)
- バルタザールどこへ行く(1966年/フランス、スウェーデン)
- ラルジャン(1983年/フランス、スイス)
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