世界的ベストセラーをイーストウッドが映画化した、性欲フル可動の肉欲映画
主婦の満たされない日常に訪れるアバンチュールを描いて、世界的ベストセラーとなったロバート・ジェームズ・ウォラーの同名小説を、クリント・イーストウッドが映画化したのがこの『マディソン郡の橋』(1995年)。
大学時代に友人のT(変態)を誘って吉祥寺まで観に行ったら、当然のごとく周りがカップルばっかで、完全にゲイ扱いされてしまったことを昨日のことのように覚えております。
「ド」がつくくらいにハーレクインロマンス直球ど真ん中な題材を、常にオトコ汁出しまくりのイーストウッドが監督するのは、どう考えても不相応に思えるが、彼はもともと主演のみの予定だった。
映画化権を購入したのは、スティーヴン・スピルバーグが創立した製作会社アンブリン・エンターテインメント。スピルバーグがまず監督を打診したのは、シドニー・ポラックだったらしい。
なるほど、『出逢い』(1979年)や『愛と哀しみの果て』(1985年)など、ラブロマンスの秀作を世に放ったポラックであれば、『マディソン郡の橋』の監督は適任だろう。しかし、なかなかスピルバーグが気にいるシナリオが完成せず、脚本家が次々と入れ替わる中でポラックは降板。
『ドライビング Miss デイジー』(1989年)で知られるブルース・ベレスフォードが監督する案が検討されたが、これも流れてしまい、イーストウッドにお鉢が回ってくることになる。
叙情性よりは暴力性、ロマンシチズムよりはハードボイルドをフィールドワークとする彼が、このベストセラー恋愛小説をどのように撮るのか。それはズバリ、「中年女性のアンストッパブルな肉欲」という、強烈アプローチであった!!
アイオワ州の片田舎に住んでいる平凡な主婦、フランチェスカ(メリル・ストリープ)。ひょんなことから、ローズマンブリッジを撮影するためにやってきた、ナショナル・ジオグラフィックのカメラマン、ロバート(クリント・イーストウッド)と出会う。
そして、めくるめく「運命の四日間」の扉が開く…という内容なのだが、イーストウッドはプラトニックな恋愛劇にしようという意図は、さらさら無し。
例えば序盤。ローズマンブリッジにロバートを案内したフランチェスカが、吹き出す汗を拭き拭きしつつ、正面に向かって移動するショットと、ロバートがローズマンブリッジを嬉々として撮影している様子を、フランチェスカの目線で捉えたショットが、切り返しで描かれる。
つまりこれは、「こっそり彼の姿を見てしまう」→「出会って数分しか経っていないロバートに対して、並々ならぬリビドーを感じてしまっている」ことが、初っ端から示されている訳だ。
その後は、庭のホースで老体を洗うロバートをチラ見したり、彼の身体に触れるたびに息が荒くなったり、中年女性の抑えきれない性欲がフル可動。日常にまぎれこんだ非日常が、彼女を完全にアンチモラルな世界へ誘ってしまう。
ほとんどモノローグのないこの映画において、数少ない彼女の心の声が、「彼の全てがエロティックに思えた」だったりするのだ!肉欲丸出しのセリフではないか。
最も衝撃的なのは、フランチェスカがボテっとした腹を鏡で眺めるショットだろう(あれは吹き替えだろうか?)。あのセルライトたっぷりバディは脳裏にこびりついて離れない。
重力に負けてしまった女性の肉体を露悪的に提示することによって、映画は耽美なエロティシズムというよりも、文字通り「肉欲」が二人を支配する物語として、奇妙な説得力を勝ち得ている。
過去のフィルモグラフィーで己の肉体を痛めつけてきたイーストウッドは、老境にさしかかってからは、その老いさばらえた身体をあえてスクリーンに焼き付けることによって、自分のマゾ気質を満足させた。
『マディソン郡の橋』に至っては、中年女性のセルライト・バディまで登場させて、己の肉体と対照せしめている。本作は精神性の強いピュア・ラブ・ストーリーではない。極めてフィジカルな肉欲映画なんである。
- 原題/The Bridges of Madison County
- 製作年/1995年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/135分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 製作/クリント・イーストウッド、キャスリーン・ケネディ
- 原作/ロバート・ジェームズ・ウォーラー
- 脚本/リチャード・ラグラヴェネーズ
- 撮影/ジャック・N・グリーン
- 音楽/レニー・ニーハウス
- クリント・イーストウッド
- メリル・ストリープ
- アニー・コーレイ
- ヴィクター・スレザック
- ジム・ヘイニー
- サラ・キャスリン・シュミット
- クリストファー・クルーン
- ミシェル・ベネス
- カイル・イーストウッド
- フィリス・リオンズ
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