『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』──ラベンダーの夢と崩壊の予感
『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(原題:The Florida Project/2017年)は、アメリカ・フロリダ州オーランド郊外の安モーテル〈マジック・キャッスル〉を舞台に、6歳の少女ムーニーと若い母ハーレイが貧困と隣り合わせの生活を送りながらも、日常の中に小さな喜びを見出していく姿を描く。監督はショーン・ベイカー。低予算ながら35mmフィルムで撮影され、ディズニー・ワールドの外縁という“夢の国の影”を鮮烈に切り取った。出演はブルックリン・プリンス、ブリア・ヴィネイト、ウィレム・デフォー。第90回アカデミー賞で助演男優賞にノミネートされ、インディペンデント・スピリット賞を受賞。
ラベンダーの祝祭
壁の前に佇む、女の子と男の子。「ムーニー!スクーティ!」という呼び声、駆け寄る足音、そして「新しいクルマが来た!」という報告。
やがて三人の子どもたちが笑いながらフレームの外へ走り去ると、背景には淡いラベンダーが広がり、タイポグラフィーが弾む。BGMはクール&ザ・ギャングの「セレブレーション」。いやもう、最高のオープニングじゃんか!
女の子のムーニーが部屋に戻ると、暗闇をやさしく押しのけるように陽光が差し込み、室内が流動する色彩に満たされていく。美しい。とにかく美しい。そしてこの瞬間、我々は直感的に理解する。『フロリダ・プロジェクト』(2017年)は、色が先導し、光が語る映画であるということを。
ラベンダーという色は、ここで単なる背景ではなく、映画そのものの“感情の膜”として機能する。淡い紫のトーンが現実を包み、光がその中から立ち上がる。ベイカーはこの瞬間から、観客を現実と幻想の境界に導いていくのだ。
“見たくない現実”を照らすネオリアリズム
ベイカーの映画を貫くのは、光を倫理の手段として用いるという思想だ。撮影監督アレクシス・サベは、自然光のみを用いてフロリダ特有の湿気を含んだ日差しを捉え、ラベンダーの壁や空の水色を“砂糖菓子のような甘さ”で包み込む。
しかしその光の下で、ホームレス寸前の母娘の生活は崩壊していく。影を黒く塗らず、光の中で貧困を描く──それがベイカーの美学であり倫理。光が増すほどに、内部の闇は際立つ。観客は“見たくない現実”を、美しい光の膜を通して見せられることになる。
素人俳優、即興的演出、低予算撮影。この撮影手法は、21世紀のネオリアリズムとも呼ぶべきものだろう。ベイカーはヴィットリオ・デ・シーカやロベルト・ロッセリーニの伝統を、アメリカの観光資本主義の裏側に移植した。
『自転車泥棒』(1948年)のローマが失業者の街だったように、『フロリダ・プロジェクト』のオーランドは“夢の残骸の街”。光はもはや希望の象徴ではない。それは暴露のための刃であり、現実の皮膜を剥ぎ取る装置なのだ。
舞台となるモーテル〈マジック・キャッスル〉は、ディズニー・ワールドの外縁に実在する。ミントグリーン、ピーチ、スカイブルー、ラベンダー──それらのパステルはまるで“夢の国の残り香”のように輝くが、その内部に暮らすのは夢から取り残された人々だ。6歳のムーニーと若い母ハーレイ。職も家も不安定な彼女たちは、日銭を稼ぎながらモーテルで暮らす。
ディズニー・ワールドは幸福を制度化した宗教装置であり、その外に生きる彼女たちは、聖域の外の異教徒である。ラベンダーはその“聖光”を模倣する偽の光として、貧困の風景を幻想的に照らす。
ベイカーはそこに祈りを見出す。夢の国の外で、それでも人が夢を見ようとすること。それこそがこの映画の宗教性だ。
色と運動の詩学
ハーレイの身体はこの映画のもう一つの光源である。タトゥー、髪の染料、化粧、ネイル。これらは社会から剥奪された彼女の自己表現であり、同時に貧困を覆い隠す“装飾の戦略”だ。
ベイカーはこの女性的な色をジェンダーの記号として操作する。ピンクやラベンダーのパレットは、母性とケアの象徴である一方で、観客の同情を誘うための“麻酔”としても機能する。
色はやさしく、光は残酷。だがベイカーはその逆説を暴く。ラベンダーのやわらかさは、社会的暴力を包み隠すための膜にすぎず、そこに映るハーレイの姿は、やさしさに押し潰される現代の貧困女性の肖像である。
彼女のピンクは、現実の痛みを防ぐ“防御膜”であり、世界をやさしく包み直すためのフィルターだ。物語は出来事の連続ではなく、遊びの断片や笑いの反復で構成される。時間は線ではなく点の集合であり、それらを色彩のリズムがつなぐ。
そして、ムーニーが走る。モーテルの廊下、芝生、灼けるアスファルト。走るという行為は、彼女の自由の証であり、世界への祈りでもある。カメラはその速度に合わせて揺れ、現実が一瞬だけ詩に変わる。
ラストで彼女がジャンシーとともにディズニー・ワールドへ駆け出すとき、色は爆発的に消え、光だけが残る。想像力の膜が剥がれ落ち、現実が侵入する瞬間である。
ラベンダーの残響としての希望
ショーン・ベイカーは前作『タンジェリン』(2015年)でiPhone撮影を実践したが、本作では35mmフィルムを選択した。粒子を伴う映像は、現実に手触りを与える。
しかしラストシーンだけは再びiPhoneで撮られている。ムーニーとジャンシーが手を取り、ディズニー・ワールドへ駆け出す場面──その瞬間、フィルムからデジタルへと質感が変化し、現実と幻想の境界が反転する。
このメディウムの切り替えは、“光の位相転換”である。35mmが自然光の粒子であったのに対し、iPhoneのピクセルは人工光の情報。粒子は過去を、ピクセルは現在を写す。
ラベンダーが持っていた幻想性は、ここで完全に溶解し、情報の光として再生される。ベイカーはこの変換を通じて、「映画とは何を照らすのか」「記録とは誰の現実か」という問いを突きつけている。
『フロリダ・プロジェクト』は、夢の国の光を借りて現実を照らす、きわめて逆説的な映画だ。ディズニーが“夢を管理する王国”なら、ベイカーはその外で“夢を生き延びる人々”を撮る。ラベンダーの色は、やさしさと痛み、幻想と暴力、祈りと現実のすべてを併せ持つ中間色だ。
『ノマドランド』(2021年)や『ミナリ』(2020年)と並び、この映画は“アメリカン・ドリーム以後”の映像である。そこにあるのは夢の終焉ではなく、夢の残響。
崩れた理想の廃墟の中に、なお微かに光るもの──それがベイカーの映画が捉える希望だ。彼はラベンダーのやわらかさに絶望を塗り込み、光の明るさに痛みを刻む。
やさしさの中にこそ最も鋭い社会批評が宿る。『フロリダ・プロジェクト』は、光と色が織りなす残響の映画である。ラベンダーはもはや装飾ではない。それは、夢と現実、幻想と暴力のあいだを往復しながら、なお世界を照らそうとする人間の、最後の祈りの色なのだ。
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