『紳士は金髪がお好き』(1953)
映画考察・解説・レビュー
『紳士は金髪がお好き』(原題:Gentlemen Prefer Blondes/1953年)は、マリリン・モンローとジェーン・ラッセル演じるショーガール二人が、パリへの豪華客船の旅で男たちを翻弄する物語。一見「おバカ」に見えるローレライの言動は、実は男社会を生き抜くための高度な計算に基づいている。ハワード・ホークス監督がショッキングピンクのドレスと強烈なシスターフッドで描く、愛と資本主義を巡る冷徹かつ痛快コメディ。
世界で最も賢い生存戦略
『紳士は金髪がお好き』(1953年)は、ピンク色のサテンとダイヤモンドでコーティングされた、極めて冷徹で、とんでもなくタフな「ビジネス書」である。言うなれば、家父長制というクソったれなシステムを嘲笑うパンク・ロックだ。
マドンナが真似し(『Material Girl』のミュージック・ビデオが完全にソレ)、ニコール・キッドマンが憧れ、レディー・ガガが参照したこのマスターピース。その真髄はおバカさにあるのではない。「おバカなふりをする」という、身震いするほどの高度な知性にある。
マリリン・モンロー演じる主人公ローレライ・リーを見よ。宝石を見ると理性を失い、ティアラを額ではなく首に巻こうとし、難しい話をされると白目を剥く。典型的なダム・ブロンド(Dumb Blonde=おバカな金髪娘)のステレオタイプだ。
だが、彼女は一度でも損をしているか?一度でも男に騙されているか?答えはNOだ。むしろ、彼女の周りにいる男たちこそが、彼女の手のひらでコロコロと転がされ、喜んで財布を開いている。これは偶然ではない。すべては計算ずくなのだ。
映画の終盤、彼女はとんでもない爆弾発言を投下する。
私は大事な時には賢くなれるのよ。でも男の人はそれを嫌がるの(I can be smart when it’s important, but most men don’t like it.)
このセリフ、なんと脚本にはなく、モンロー自身が監督のハワード・ホークスにねじ込んだという逸話がある。彼女は知っているのだ。男たちが求めているのは「対等なパートナー」ではなく、「自分を優位に立たせてくれるトロフィー」であることを。
だから彼女は、自らの知性を隠すことで、男たちを支配する。需要と供給を完璧に把握した、超一流のマーケティング戦略。
富豪のピギーの父親に「金目当てか?」と詰められた時の返しも最高だ。「娘さんが結婚するとき、貧乏人と金持ち、どっちがいいですか?」「そりゃ金持ちだ」「でしょ? お金持ちの男と結婚するのも同じよ」。もう、完全論破である。
愛と経済を天秤にかける彼女のリアリズムは、愛だの恋だのと夢見がちな男たちよりも遥かに現実に即している。彼女にとって若さと美貌は減価償却資産であり、暴落する前にダイヤモンドという安定資産に換える。
この冷徹な損切りと利確のスピード感。ローレライ・リーは、アダム・スミスも裸足で逃げ出す経済合理性の化身なのだ。
視線の逆転と最強のシスターフッド
この映画のもう一人の主役、ジェーン・ラッセル演じるドロシー。彼女はローレライの保護者であり、共犯者であり、そして最高の相棒だ。
ハリウッド映画といえば、女二人が出てくれば男を取り合ってキャットファイトをするのがお決まりだった。だが、『紳士は金髪がお好き』は違う。ここに湿っぽい嫉妬や裏切りは一切ない。あるのは、鉄よりも硬いシスターフッドだけだ。
ドロシーはローレライの金への執着を呆れながらも否定しないし、ローレライはドロシーの男の趣味(筋肉バカ好き)を尊重する。ローレライがピンチになれば、ドロシーが変装して法廷に立ち、ローレライを守り抜く。男たちは、二人の友情を引き立てるための舞台装置に過ぎない。
ラストシーンの合同結婚式を思い出してみよう。カメラは二人の花嫁をド真ん中に捉え、花婿たちは画面の端っこに追いやられている。結婚はゴールではない。彼女たちが二人で楽しく生きていくための、資金調達が完了したに過ぎない。
極めつけは、映画史に残る「視線の逆転」劇、プールサイドでのミュージカル・ナンバー『Ain’t There Anyone Here for Love?』だ。
オリンピックの米国代表チームの男たちが、パンツ一丁で筋肉を見せつけてトレーニング。その周りを、ジェーン・ラッセルが「愛がないわねえ」とボヤきながら練り歩く。
通常、映画で「見られる客体」になるのは女の役割だった。だがここでは、男たちが完全に肉体というモノとして陳列され、ラッセルがそれを品定めする消費者になっている。
しかも男たちはトレーニングに夢中で、絶世の美女であるラッセルを無視し、ひたすら筋肉を動かすだけ。ナルシシズムの極致!ラッセルは彼らの人間性には一切興味を示さず、観賞用植物を見るような目で彼らの筋肉を撫で回す。これは痛烈な皮肉だ。男たちが長年女性に対してやってきたことを、そのままやり返しているのだから。
監督のハワード・ホークスと振付師ジャック・コールは、このシーンで家父長制の構造を完全にひっくり返してしまった。
キャンプという名の抵抗
この映画のビジュアルは、一言で言えば“嘘くさい”。
船のデッキはベニヤ板丸出しだし、空は絵の具で塗ったような青色だ。そしてあの伝説のナンバー「Diamonds Are a Girl’s Best Friend」の背景は、目が痛くなるような赤とピンク、照明は影一つないフラットな光。リアリティの欠片もない。
だが、それでいい。いや、それがいい。この過剰なまでの人工性こそが、この映画の美学、いわゆるキャンプ(Camp)の真髄なのだから。
デザイナーのウィリアム・トラヴィーラが作ったあのショッキングピンクのドレスは、激しいダンスでも形が崩れないよう、裏地にフェルトや芯地をガチガチに貼り付けたダンボール構造だったという。それはもはやドレスではない。モンローという壊れやすい魂を守るためのパワードスーツである。
1950年代、女性の権利など無きに等しかった時代。生身の人間として生きることは、あまりにも過酷だった。だからこそ、彼女たちはテクニカラーの虚構の世界に引きこもり、完璧な人形になりきることで現実と戦った。
あのナンバーでモンローが見せる、カクカクとした機械的な動き。あれは完全に操り人形のパントマイムだ。彼女は自ら進んで消費される記号になることで、逆に消費者をコントロールする。
ゴースト・シンガーのマーニ・ニクソンによる吹き替え?そんなことはどうでもいい。「マリリン・モンロー」という巨大な虚像を完成させるためなら、使えるものは声でも筋肉でも何でも使う。その徹底したプロフェッショナリズムこそが、この映画を単なるコメディから「芸術」へと昇華させているのだ。
「ダイヤモンドは女の親友」という歌詞は、拝金主義の歌ではなく、「男は裏切るし、美貌は衰える。最後に頼れるのは換金できる石ころだけ」という、絶望的なまでのニヒリズムの叫びだ。
それでも彼女は笑顔で歌う。ピンクの鎧を纏い、男たちを蹴散らしながら。その姿は、現代のSNS社会で理想の自分を演じ続ける私たちに、強烈なエールを送っているようでもある。
- 監督/ハワード・ホークス
- 脚本/チャールズ・レデラー
- 製作/ソル・C・シーゲル
- 原作/ジョゼフ・フィールズ、アニタ・ルース
- 撮影/ハリー・J・ワイルド
- 音楽/ライオネル・ニューマン、ジュール・スタイン
- 編集/ヒュー・S・ファウラー
- 美術/ライル・ウィーラー、ジョセフ・C・ライト
- 衣装/ウィリアム・トラヴィーラ
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