『ゴッドファーザー PART III』(1990年/フランシス・フォード・コッポラ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ゴッドファーザー PART III』(原題:The Godfather Part III/1990年)は、前作から16年の歳月を経てフランシス・フォード・コッポラ監督が再びメガホンをとり、三部作の完結編として制作した壮大なクライム・ドラマ。1970年代後半を舞台に、ファミリーの首領として長年裏社会に君臨してきたマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)が、自身の過去の罪に苛まれながら、一族の完全なる合法化とバチカン銀行との提携事業「イモビリアーレ」への投資に活路を見出す。第63回アカデミー賞では作品賞を含む7部門にノミネート。2020年には監督自らが再構築した『ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期』が発表された。
- 第65回キネマ旬報(外国映画):第10位
- 1991年度カイエ・デュ・シネマ:第4位
破産の淵から生まれた再起動
1974年に『ゴッドファーザー PART II』がスクリーンに放たれてから16年。フランシス・フォード・コッポラにとってこの空白期間は、かつての栄光からの緩やかな、しかし決定的な転落のプロセスだった。
自身のスタジオであるアメリカン・ゾエトロープの野心作『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982年)の歴史的な興行不振により、彼は巨額の負債を抱え、文字通り破産の淵に立たされていた。
そこにパラマウントから舞い込んだ『ゴッドファーザー』新作のオファーは、経済的にも精神的にも追い詰められた彼にとって、拒絶できない悪魔の契約だったのだろう。
コッポラは当初、この続編のメガホンを取ることを固辞し続けていた。彼の中で、マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の物語は、前作の冷ややかな湖上の銃声とともにすでに終結していたからだ。
しかし、一族=ファミリーを支えるために自らの魂を切り売りしなければならないという苛酷な現実は、奇しくも劇中のマイケルの境遇とあまりにも残酷なシンクロニシティを見せている。
マリオ・プーゾと共同で執筆した脚本の本来のタイトルが『マイケル・コルレオーネの最期』だったことが示すように、コッポラにとって『ゴッドファーザー PART III』(1990年)は、物語を延長する安易な続編ではなく、血と罪の呪縛から逃れようとあがく男の終焉を弔うための、静謐なエピローグだったのだ。
本作の構造的欠落としてしばしば言及されるのが、義兄であり冷徹な右腕でもあったトム・ヘイゲン(ロバート・デュヴァル)の不在だ。出演料の格差を理由にした彼の降板により、コッポラは脚本の根本的な改稿を余儀なくされる。
結果としてヘイゲンの代役に据えられた弁護士B・J・ハリソン(ジョージ・ハミルトン)には、かつての血の通った絆は微塵もない。だが、この計算違いの不在が、逆にマイケルという男が巨大な資本の砂漠にただ独り取り残されているという痛切な実態を浮き彫りにしているではないか。
さらに僕を戦慄させるのは、マイケルの愛娘メアリー役の配役プロセスに潜む、異様なまでの執念である。当初予定されていたウィノナ・ライダーが重い上気道感染症と高熱で降板した際、コッポラは現場に同行していた実の娘、ソフィア・コッポラを急遽代役に抜擢した。
当時のメディアは彼女の未熟な演技を親バカすぎると激しく指弾したが、時間を経て見つめ直すとき、そこには背筋の凍るような意味が立ち上がってくる。
自らの経済的破綻を救うため、あえて撮らねばならなかったフィルムの只中に実の娘を立たせ、さらには劇中で無残に射殺させるという残酷な作劇。これは、映画という抗えない巨大なシステムに、自らのファミリーそのものを捧げた生贄の儀式に他ならない。
バチカンという巨大な暴力装置
本作を単なるマフィア映画の枠を超え、深遠な実存のドラマへと押し上げているのは、贖罪という宗教的なテーマである。
マイケルはマフィアとしての非合法な過去を完全に清算すべく、バチカンの不動産会社インモビリアーレの買収を目論む。しかし、コッポラの冷徹なカメラが捉えるカトリックの総本山は、愛と許しの聖域などではない。マフィアの組織構造以上に洗練され、かつ冷酷な暗黒の暴力装置として立ちはだかるのだ。
撮影監督ゴードン・ウィリスが構築するミザンセーヌは、前作までを支配していたノワール的な漆黒の底から、ルネサンス絵画を思わせる宗教的な黄金色へとシフトしている。
だが、豪奢な光が差し込めば差し込むほど、その背後に落ちる影は救いようのない深さを増していく。その深い闇の中で、マイケルがランベルト枢機卿に告解を行うシークエンスは圧巻だ。
実の兄フレドを殺害したという、神にすら許されぬ原罪を震える声で告白するマイケルの姿。アル・パチーノが体現するその脆さは、権力者の仮面が剥がれ落ちた一人の老人の悲哀そのものだ。しかし、彼がここで得たのは真の赦しではなく、これから訪れる無限の受難への宣告でしかなかった。
このフィルムが最も熱を帯びるのは、シチリアのパレルモにあるマッシモ劇場を舞台にしたクライマックス。息子のアンソニーが歌うオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の舞台と、若き後継者ヴィンセント(アンディ・ガルシア)の指揮による血の粛清が交差する。
これは言うまでもなく、第1作の神聖な洗礼式や、第2作の聖母の祭りの裏で繰り広げられた暗殺劇の、自己言及的なリフレインだ。かつて暴力の絶対的な支配者だったマイケルは、いまや玉座を譲り渡し、自らが引き金となった悲劇の連鎖を客席からただ見守ることしかできない無力な傍観者へと成り下がっている。
そして、オペラ座の階段で悲劇は頂点に達する。放たれた凶弾はマイケルを逸れ、彼が何よりも守りたかった無垢の象徴である娘メアリーの胸を貫いた。血に染まる娘を抱きしめ、マイケルが天を仰ぐ刹那、コッポラは劇伴も悲鳴もすべてを消し去るという極限の演出を施している。
映画史上もっとも残酷な「無音の絶叫」だ。音という情報を意図的に剥奪されたことで、我々はマイケルの歪んだ顔と引き攣る肉体を、直接的な痛みとして皮膚で感じ取ることになる。
数秒の永遠ののち、遅れて響き渡る彼の悲鳴は、もはや人間のそれではなく、神から贖罪を拒絶された魂が暗黒の底から放つ咆哮だった。
孤独死という名の救済
すべてが終わった後、シチリアの乾いた庭でマイケルは独り、静かな死を迎える。彼の傍らには愛する家族の姿はなく、ただ名もなき一匹の犬が通り過ぎるだけだ。
かつてアメリカの裏社会を牛耳った男は、手からこぼれ落ちるオレンジとともに、使い古された人形のように椅子から崩れ落ちる。そこにはいかなる死の美学も介在せず、ただ実存の摩耗と果てしない虚無だけが横たわっている。
2020年、コッポラはこの作品を再編集し、『ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期』(2020年)として世に送り出した。微調整された結末において、マイケルは肉体的な死すら明確には描かれず、贖罪を抱えたまま孤独な生を永遠に強制されるかのような、より残酷な余韻を残している。
人が一度犯した罪の重力は、どれほどの富や権力をもってしても決して振り切ることはできない。あらゆるものが記号として消費され、責任の所在が不可視化されていく現代社会において、マイケル・コルレオーネが背負わされた絶対的な孤独と罪の意識は、我々自身の首を絞める見えない鎖として不気味なリアリティを放つ。
彼のあの無音の絶叫は、映画という枠組みを超え、今もなお我々の心の暗がりで空虚に木霊しているのだ。
参考文献・出典
- 監督/フランシス・フォード・コッポラ
- 脚本/フランシス・フォード・コッポラ、マリオ・プーゾ
- 製作/フランシス・フォード・コッポラ
- 製作総指揮/フレッド・フックス、ニコラス・ゲイジ
- 制作会社/パラマウント・ピクチャーズ、ゾエトロープ・スタジオ
- 原作/マリオ・プーゾ
- 撮影/ゴードン・ウィリス
- 音楽/カーマイン・コッポラ
- 編集/バリー・マルキン、リチャード・マークス、ウォルター・マーチ
- 美術/ディーン・タボラリス
- 衣装/ミレーナ・カノネロ
- ゴッドファーザー(1972年/アメリカ)
- カンバセーション…盗聴…(1973年/アメリカ)
- ゴッドファーザー PART II(1974年/アメリカ)
- 地獄の黙示録(1979年/アメリカ)
- ゴッドファーザー PART III(1990年/アメリカ)
- メガロポリス(2024年/アメリカ)
- ゴッドファーザー(1972年/アメリカ)
- ゴッドファーザー PART II(1974年/アメリカ)
- ゴッドファーザー PART III(1990年/アメリカ)
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