2026/5/11

『聖地には蜘蛛が巣を張る』(2022)徹底解説|神の名の下に裁きを下す。社会が加担した浄化の意味

『聖地には蜘蛛が巣を張る』(2022年/アリ・アッバシ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
6
OKAY

概要

『聖地には蜘蛛が巣を張る』(原題:Holy Spider/2022年)は、イラン出身のアリ・アッバシ監督が、2000年代初頭に実際に起きた連続殺人事件を基に、宗教的狂信と根深いミソジニーを冷徹に暴き出した衝撃のクライム・サスペンス。イランの聖地マシュハドで「街の浄化」を掲げ、娼婦を次々と殺害した「スパイダー・キラー」ことサイード・ハナイの犯行と、その背後に潜む社会の歪みを、執拗なまでにリアルな筆致で描き出す。主演のザーラ・アミール・エブラヒミは、第75回カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞した。

受賞歴
  • 第75回カンヌ国際映画祭:女優賞
  • 2023年度映画秘宝:第4位
目次

カタルシス泥棒の冷徹な視線

イランの聖地マシュハドで実際に起きた、16人もの娼婦連続殺人事件(2000年〜2001年)。

この凄惨な実話をベースにしたアリ・アッバシ監督の『聖地には蜘蛛が巣を張る』(2022年)は、デヴィッド・フィンチャーの『セブン』(1995年)のような、天才的な異常犯罪者と知略を争うスタイリッシュなサイコスリラー……では断じてない!むしろ、そうしたジャンル映画のクリシェを鮮やかに裏切っていく、極めて底意地の悪い作品である。

アッバシが執拗にカメラを向けるのは、殺人鬼サイード(メフディ・バジェスタニ)の、あまりにも凡庸で生活臭にまみれた姿だ。彼はカリスマ性を備えた悪の権化などではなく、妻と子供を愛する疲れた中年男であり、元軍人の建築作業員に過ぎない。夕食の席で家族と談笑し、その同じ手で夜の街へバイクを走らせ、娼婦の首をヒジャブで締め上げる。

興味深いのは、彼の動機が純粋な信仰心というより、極めて利己的でこじらせた承認欲求に見えること。イラン・イラク戦争の生き残りである彼は、戦友たちのように殉教者になれなかったコンプレックスを抱えている。

冴えない日常の鬱憤を、街の浄化という大義名分にすり替えて晴らしているだけの、言わば『タクシードライバー』(1976年)のトラヴィスにも通じる、有害な男らしさの権化。その空っぽな自己愛こそが、本作の生々しい恐怖の根源である。

スパイダーウェブの反転

タイトルの「蜘蛛の巣」というメタファーも、本作では極めて物理的に機能している。舞台となるマシュハドの中心には、光り輝くイマーム・レザー廟が存在し、そこから街の道路が放射状に広がっているのだ。

誰もが知る『スパイダーマン』(2002年)で、摩天楼を飛び交うスパイダーウェブは、落下する人々を救い、悪党を捕らえる正義のツールだ。しかし、このマシュハドという街において、蜘蛛の巣の概念はあまりにもグロテスクに反転している。

ピーター・パーカーが、ニューヨークの空という垂直の空間を上昇する光のヒーローだとすれば、サイードはマシュハドの暗い地べたという水平の空間を這い回る、闇のアンチ・ヒーロー。

夜、バイクで娼婦を物色する彼の動線は、神聖な光に包まれた中心部から、欲望や貧困が渦巻く暗い周縁部へと広がる、まさに巨大な毒蜘蛛そのものである。

さらに絶望的なのは、このスパイダーウェブの正体だ。スパイダーマンは自らの手で糸を紡ぐが、サイードの場合、彼を擁護するイランの家父長制や宗教的権威そのものが、街全体を覆う巨大な網として機能し、彼に殺しのライセンスを与えてしまっているのだ。

そして、この実在の事件にアッバシが仕掛けた最大のフィクションが、首都テヘランからやってくる女性ジャーナリスト、ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)の存在である。

タバコを燻らせ、単身で危険な街に潜入し、腐敗した権力に噛み付く彼女の姿は、古典的なフィルム・ノワールのハードボイルドな探偵役の系譜にある。

しかし、彼女の前に立ちはだかる最大の障壁は、凶悪な犯罪組織などではない。一人でホテルにチェックインしようとすれば不審がられ、警察署長からはセクハラを受け、聖職者たちは捜査に非協力的な態度をとる。男性主人公なら簡単に突破できるはずの扉が、女性というだけで強固な壁となるのだ。

彼女はサイードという一匹の蜘蛛を追っているつもりが、実は「社会」という名の粘着質で巨大なスパイダーウェブに絡め取られ、身動きが取れなくなっていく。

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」のではなく、「大いなる権威が、大いなる暴力(ミソジニー)を免罪する」という、あまりにもシニカルで絶望的なアメコミ映画のダークミラー。それが本作の恐るべき正体である。

観客への刃と、継承されるウィルス

本作の殺戮シーンには、映画的なカタルシスや美化が1ミリも用意されていない。被害者の女たちが必死に抵抗し、もがき苦しむ肉体の摩擦音と、息の根が止まるまでのひどく泥臭い暴力のプロセスが延々と続く。

なぜアッバシのカメラは、これほどまでに冷徹に記録し続けるのか。それは、私たち観客から「シリアルキラーの異常性を消費する覗き見趣味(ボイヤリズム)」を容赦なく剥奪するためだろう。

安全な客席からポップコーン片手に「トゥルー・クライム」を楽しむ私たちもまた、終盤でサイードを「英雄だ」と讃える狂った市民たちと、本当に無関係だと言い切れるのか? 意図的に乾いた画面構成は、そんな居心地の悪い問いを観客の喉元に突きつけてくる。

極めつけは、映画史に残るトラウマ確定のラストシーンだ。ラヒミが残したビデオカメラの映像として、サイードの10代の息子が映し出される。

彼は誇らしげな笑顔を浮かべ、父親がどのように女たちを殺したのかを、自らの妹を被害者役に見立てて無邪気に実演してみせるのだ。洗練された映画のトーンを不意に切り裂く、この粗いホームビデオの質感!

そこには、憎悪と暴力のシステムが、イデオロギーという名のウィルスとなって次の世代へと完全に「感染」してしまった瞬間が記録されている。

極端なクローズアップと息詰まるような閉鎖的な画面構成によって、国家というシステムの暗部を抉り出した本作。あの少年の無邪気な笑顔が突きつける「暴力の再生産」の恐ろしさは、劇場を出た後も、しばらくは観る者の三半規管を激しく狂わせ続けるに違いない。

アリ・アッバシ 監督作品レビュー