『炎628』(1985年/エレム・クリモフ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『炎628』(原題:Idi i smotri/1985年)は、ソ連のエレム・クリモフ監督が、第2次世界大戦中にナチス・ドイツが行った白ロシア(現ベラルーシ)での虐殺という人類史上最も忌まわしい記憶を、徹底的なリアリズムと悪夢的な映像美で描き出した、戦争映画の金字塔であり「到達点」である。原案は、自らもパルチザンとして戦ったアレシ・アダモヴィチの壮絶な体験。主人公の少年フリョーラが、銃を手に愛国心に燃えて戦場へ足を踏み入れた瞬間から、地獄のような現実を経て「少年から老人へと変貌する」までの過程は、戦争がいかに個人の尊厳と未来を容赦なく剥ぎ取るかを克明に映し出す。
究極の体感映画
究極のトラウマ映画として名高い、『炎628』(1985年)。昔DVDで観たことはあったけど、やはり地獄の蓋は映画館の大スクリーンで開けるべき!と思い立ち、電車に揺られること1時間、わざわざ北千住の映画館まで足を運んでみた。
結論から言おう。完全に舐めていた。
映画館という密室で、逃げ場のない大音量と大画面の暴力に晒される体験。僕にとって『炎628』をスクリーンで観るということは、もはや精神的拷問だった。
かつてDVDの小さな画面で観て、「トラウマになったわー」などとホザいていた過去の自分を殴りたい。あの時の記憶すら、生ぬるい幻影だったと思い知らされた。
本作は、第二次世界大戦中の白ロシア(現在のベラルーシ)を舞台に、ドイツ軍の凄惨な掃討作戦に巻き込まれた少年フリョーラの地獄巡りを描いた旧ソ連の戦争映画。
監督のエレム・クリモフは、パルチザンとして実際に過酷な戦場を生き抜いたアレシ・アダモヴィチと脚本を共同執筆し、戦争がもたらす極限の非道さをフィルムに焼き付けた。
海外のレビューサイトでも圧倒的な高評価を得ており、「史上最も恐ろしい反戦映画」との呼び声も高い。だが劇場でこの作品を目の当たりにした今となっては、「反戦」という言葉すら生ぬるいように感じてしまう。スクリーンから放たれるのは、反戦という大義名分すら炭化するような、剥き出しの狂気そのものだ。
冒頭、無邪気な笑顔を見せていたツルツルの少年が、わずか数日間のうちに、生気を完全に失った老人のように変貌を遂げていく。その特大クローズアップがスクリーンいっぱいに映し出された時の、暴力的なまでの圧力たるや!
泥と血にまみれ、どんぐりのように見開かれた彼の眼球は、もはやこちら側の安全圏すら削り取ってくる。戦争という異常なシステムが人間の尊厳をミンチにしていく様を、彼の顔面というキャンバスひとつで完璧に証明してみせたのだ。
僕らが暗闇のなかで強いられるのは、ただひたすらに、顔面蒼白なまま絶望に同調することだけなのである。
実弾が飛び交う異常な現場が生み出した「本物の恐怖」
クリモフ監督は、この映画を単なる作り物で終わらせないために、とんでもない手法をとった。驚くべきことに、劇中で飛び交う銃弾の多くは空砲ではなく実弾なのである(ヤバすぎる)。
主演のアレクセイ・クラフチェンコをはじめとする俳優たちの頭上を、文字通り本物の弾丸がかすめていく過酷極まる現場。彼らの顔に浮かぶ恐怖は、迫真の演技などではなく「マジで死ぬ!」というガチの反応なのだ。
マシンガンの掃射で牛が倒れるシーンでさえ、実際に起きた光景をカメラに収めている。CGなど存在しない時代とはいえ、ドキュメンタリーとフィクションの境界線をロケットランチャーでぶっ飛ばすようなアプローチだ。
さらに、撮影はほぼ順撮りで行われた。過酷な撮影が続く中、クラフチェンコが精神をすり減らしていくのを見た監督が、「このままでは彼が狂ってしまう」と危惧し、トラウマ軽減のために現場へ催眠術師を呼んだという逸話まで残っているほど。
ここまで徹底して地獄を再現しようとする異常な執念は、もはや狂気の沙汰である。僕たちはスクリーン越しに、演技という安全フィルターを完全に引っぺがされた本物の恐怖を目撃させられるのだ。
五感を狂わせる音響と、逃げ場のない耳鳴り
劇場で特に感じたのが、五感をハッキングしてくるような徹底した音響設計。視覚的トラウマばかりが語られがちな本作だが、その真の殺傷能力は、聴覚から精神を追い詰める暴力的なサウンドにあるのではないか。
激しい空爆のシーンを境に、映画の音響世界はバグったように一変する。フリョーラが爆発で鼓膜を損傷した瞬間、周囲の爆音はこもり、代わりに「キーーーン!」という耳をつんざく高いノイズが劇場全体に鳴り響く。
この耳鳴りは、映画館の大スピーカーを通して観客の脳味噌に直接こびりつき、逃げ場のない息苦しさをもたらす。この不快な高周波をシャワーのように浴び続けることで、僕らの平衡感覚すら徐々にゲシュタルト崩壊を起こしていく。
さらにえげつないのは、音のコントラストだ。沼地を渡る際の泥をぐちゃぐちゃとかく音や、葉を叩く雨粒の音といった自然の環境音が、ASMRを悪魔合体させたように不自然なほど大きく増幅されている。
その一方で、姿の見えないドイツ軍機のエンジン音が、腹の底を揺らす不気味な重低音として這い寄ってくる。視覚的に何も映っていなくても、この低音だけで巨大な絶望が迫り来る恐怖を刻み込むのだ。
赤ん坊のヒトラーを撃てるのか?
極限の精神状態へと追い込まれた末に迎えるラストシーンについて、どうしても触れておきたい。
フリョーラが泥に落ちたライフルを拾い上げ、ヒトラーの肖像画に向かって怒りの引き金を引く。銃声が響き渡るたびに、ナチスの記録映像が時間を遡り、歴史が逆再生されていく。
強制収容所の惨劇から、党大会での熱狂、ヒトラーの青年時代、そしてついには彼が母親に抱かれた「無垢な赤ん坊」だった頃の姿へと映像は遡及する。
この場面でフラッシュバックするのが、劇中でナチスの将校が言い放った「子供は将来の禍根になるから殺した。共産主義者は死ぬべきだ」という吐き気を催すほど冷酷なセリフ。彼らは「未来の脅威を事前に摘み取る」という身勝手な理屈で、何の罪もない子供たちをゴミのように虐殺した。
では、フリョーラは未来の巨悪となる「赤ん坊のヒトラー」を撃てるのだろうか?
もしここで彼が引き金を引いてしまえば、それは皮肉にもナチス将校の「将来の禍根になる子供は殺す」という狂った論理を自らなぞることになってしまう。怒りと絶望の果てに元凶を抹消しようとしたフリョーラだが、結局赤ん坊には銃を撃てなかった。
少し意外な接続に思われるかもしれないけど、「未来の悲劇を防ぐために、その元凶となる子供を殺せるのか?」という倫理的な問いは、ライアン・ジョンソン監督のSF映画『LOOPER/ルーパー』(2012年)のテーマにも突き刺さるのでは?と思った。この映画でも、未来で世界を破滅させることになる子供を前に、主人公が究極の選択を迫られる。
どれだけ時間を逆行させようと、流された血は元に戻らず、ミンチにされた無邪気さは二度と復元しない。フリョーラが下した決断と、『ルーパー』が導き出した結末。
ジャンルも時代も全く違う二つの作品が、人間の本性に潜む暴力の連鎖について、全く同じ超ヘビー級の問いを投げかけていることに気づいたとき、僕は本作の奥深さに改めて身震いしたのである。
参考文献・出典
- 監督/エレム・クリモフ
- 脚本/アレシ・アダモヴィチ、エレム・クリモフ
- 制作会社/モスフィルム、ベラルーシフィルム
- 原作/アレシ・アダモヴィチ
- 撮影/アレクセイ・ロジオーノフ
- 音楽/オレーグ・ヤンチェンコ
- 編集/ヴァレリア・ベロヴァ
- 美術/ヴィクトル・ペトロフ
- 衣装/エレナ・ミハロフスカヤ
- 炎628(1985年/ソ連)
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