2025/1/11

『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』(2022)徹底解説|映画を語る痛みと優しさの青春ドラマ

『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』(2022)
映画考察・解説・レビュー

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概要

『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』(2022年)は、カナダのチャンドラー・レヴァック監督が描く青春ドラマである。映画に没頭する高校生ローレンスが、地元のビデオ店で働きながら、他者との関わりや成長を経験していく物語。彼は映画の知識に救われながらも、その言葉で人との距離を作ってしまう。女性店長アラナとの出会いを通して、ローレンスは“語る”ことよりも“聴く”ことの意味を学んでいく。2000年代初頭のカナダ郊外を舞台に、映画と人間の関係を静かに見つめた作品である。

目次

鏡の中の怪物、フィルム・ブロという病

この映画を観ることは、ある種の人間にとっては拷問であり、またある種の人間にとっては赦しである。

特に、かつてサブカルチャーという名の鎧をまとい、知識の多さを人間としての優越だと勘違いしていた僕のような人間にとっては、スクリーンに映るすべてが“過去の自分の罪”を見せつけられているようで、直視できないほどの激痛を伴う体験だった。

カナダの新鋭チャンドラー・レヴァック監督が放った『I Like Movies アイ・ライク・ムービーズ』(2022年)は、ノスタルジックな青春映画の皮を被った、あまりにも鋭利なオタク解剖学である。

17歳の主人公のローレンスは、カナダの田舎町バーリントンで、レンタルビデオ店でのアルバイトに精を出しながら、ニューヨーク大学(NYU)への進学を夢見ている。

彼の口から出る言葉は、いつだって攻撃的で、閉鎖的で、そして痛々しいほどに孤独だ。「『シュレック』なんてクソだ」、「ポール・トーマス・アンダーソンこそが神だ」、「学校の連中は誰も“本物”を分かっちゃいない」(ああ、耳が痛い!)。

この映画が批評的に最も重要なのは、監督であるチャンドラー・レヴァックが、自身の高校時代の実体験をベースにしながら、主人公をあえてトキシック・マスキュリニティの塊である男子高校生に改変したことにある。

自伝的な作品なんてものは、多少なりとも自分を美化し、感傷的に描いてしまうもの。しかしレヴァック監督は、過去の自分の痛さや傲慢さを客観的に切り刻むために、ジェンダーを反転させるという荒技に出た。

これにより、ローレンスというキャラクターは、「映画が好き」という純粋な情熱と、「映画を知っている自分は特別だ」という歪んだ選民意識が同居する、極めて複雑でリアルな怪物として立ち上がる。

彼はフィルム・ブロ(Film Bro)と呼ばれる人種の典型だ。映画をコミュニケーションのツールではなく、マウンティングの武器として使う。スタンリー・キューブリックやクエンティン・タランティーノを崇拝し、女性やマイノリティの視点を軽視し、自分の美学に合わないものを徹底的に排除する。

ローレンスは、親友のマットに対しても、支配的な態度を崩さない。マットが「普通の」映画を楽しもうとすると、ローレンスはそれを嘲笑し、自分の高尚な趣味を押し付ける。

この関係性の暴力性に、彼自身は全く気づいていない。なぜなら、彼にとって映画は宗教であり、自分はその敬虔な信徒であり、友人は教化すべき迷える子羊だと思い込んでいるからだ。

カメラはそんな彼を冷徹に突き放すだけではない。主演のアイザイア・レクティネンの驚異的な演技力も相まって、その傲慢な態度の裏側に張り付いた、今にも壊れそうな脆さをも映し出す。

彼が知識の鎧を分厚くすればするほど、その内側にある「誰にも理解されない」という孤独は深まっていく。父親の不在、母親との不和、経済的な焦り。現実世界での無力感を打ち消すために、彼は「映画監督志望」という肩書きにしがみつくしかないのだ。

シークエルズという名の煉獄

舞台となる2003年という時代設定もまた、この映画のテーマを語る上で欠かせない。

それは、アナログからデジタルへの過渡期であり、インターネットが日常に侵食しつつも、まだSNSが自我を肥大化させる前の、最後の無垢な時代である。そして何より、レンタルビデオ店という文化が、その最後の輝きを放っていた時代だ。

ローレンスが働くビデオ店「シークエルズ」は、チェーン店の「ブロックバスター」に押され、経営難に喘いでいる。だが、ローレンスにとってそこは、世界のすべてを学べる図書館であり、学校や家庭での居場所のなさを埋めてくれるサンクチュアリだった。

レヴァック監督は、実際に閉業したブロックバスターの棚を譲り受け、当時の空気感を完璧に再現したという。VHSとDVDが混在する棚、薄暗い蛍光灯、カーペットの匂い、そしてレジ横のお菓子。あの空間には、独特の時間が流れていた。映画ファンにとって、ビデオ店の店員は「選ばれし者」であり、カウンターは説教台だった。

しかし、本作におけるシークエルズは、単なるノスタルジーの対象としては描かれない。それはローレンスが現実から逃避するためのシェルターであり、同時に彼の成長を阻害する煉獄でもある。

ここで登場するのが、店長のアラナだ。彼女はかつて映画業界を目指していたが挫折し、今は地元のビデオ店で燻っている30代の女性。ローレンスは当初、彼女を「話の分かる大人」として理想化し、一方的な親近感を抱く。彼女になら自分の高尚な映画論が通じる、彼女こそが自分のミューズ(女神)になるはずだと。

だが、この視点こそが、ローレンスの持つ「他者への想像力の欠如」を残酷なまでに浮き彫りにする。アラナにはアラナの人生があり、痛みがあり、ローレンスの知らない大人の絶望を抱えている。

彼女が時折見せる冷ややかな視線や、ふとした瞬間の沈黙の意味を、ローレンスは読み取ることができない。彼は彼女をキャラクターとして消費しようとし、生身の人間として尊重していないのだ。

特に印象的だったのが、バックルームでの休憩時間の描写。ローレンスは自分の野望や映画の知識を早口でまくし立てるが、アラナの反応は鈍い。この温度差、噛み合わなさこそが、2003年という時代のコミュニケーションの不全を象徴しているかのよう。

スマホもSNSもない時代、人と人とは直接向き合うしかなかった。だからこそ、その断絶はより深く、誤魔化しがきかない。ローレンスが信奉する「作家主義」や「映画史」といった大文字の言葉は、目の前にいる傷ついた一人の女性を救う役には立たないのだ。

物語の中盤、アラナがある告白をするシーンで、その残酷さは頂点に達する。彼女の過去、彼女が受けた傷。それは映画の脚本のようにドラマチックに語られるものではなく、生々しく、理不尽な現実だ。

その時ローレンスは言葉を失い、ただ狼狽するだけ。彼が蓄えてきた数千本の映画の知識の中に、目の前の女性にかけるべき言葉は一つもなかった。

この瞬間、シークエルズという聖域の魔法は解ける。ビデオ店のカウンターは、もはや彼を守る砦ではない。そこは、彼が自分自身の無力さと、他者の痛みを知るための教室へと変貌する。

2003年という設定は、物理メディアが情報(データ)へと変わっていく分岐点であり、同時にローレンスという少年が、自己完結した妄想の世界から、他者が存在する現実世界へと否応なく引きずり出されるタイミングと重なる。

レヴァック監督は、この時代の空気感を、感傷に浸ることなく、しかし深い慈愛を持って描き切った。店内に並ぶ『パンチドランク・ラブ』や『ハッピー・ギルモア』といった当時の新作映画のパッケージ一つ一つが、ローレンスの心の叫びを代弁しているかのように配置されているのも見逃せない。

パンチドランク・ラブ
ポール・トーマス・アンダーソン

この空間設計の緻密さこそが、本作を単なる「あるあるネタ」を超えた、普遍的な青春劇へと昇華させているのだ。

エンドロールの向こう側

物語の終盤、ローレンスは相次ぐ失敗により、アイデンティティ・クライシスを迎える。大学進学の失敗、親友との決裂、職場でのトラブル。彼が築き上げてきた「天才映画監督の卵」というセルフイメージは、木っ端微塵に粉砕される。

彼がラストシーンで見せる変化は、劇的なものではない。しかし、冒頭の彼とは決定的に違う“何か”を宿している。それは謙虚さであり、他者へのリスペクトだ。

彼は、自分の好きなものを否定されたからといって、相手の人格まで否定する必要はないことを学ぶ。自分にとっての傑作が、他人にとっては駄作かもしれないという当たり前の事実を受け入れる。

そして何より、映画を語る言葉ではなく、自分の言葉で母親や友人と対話することを始めるのだ。このプロセスは、彼がフィルム・ブロという鎧を脱ぎ捨て、映画が好きな男の子に戻っていく過程でもある。

この映画のタイトル『I Like Movies』は、最初と最後で全く違う意味を持って響く。冒頭のそれは、他人を威嚇し、自分を大きく見せるための武装としての言葉だった。

しかしラストのそれは、純粋な愛の告白へと回帰する。そこにはもう、誰かと比較して優劣をつける卑しさは微塵もない。ただ、好きなものを好きと言える喜びと、それを誰かと共有したいというささやかな願いだけがある。

これは、すべてのオタクがいつかは通過しなければならない通過儀礼なのだ。知識を詰め込む段階を終え、その知識を他者への優しさや、人生を豊かにするために使う段階へ進むこと。ローレンスはその入り口に立ったのだ。

レヴァック監督の演出は、最後までローレンスを突き放さない。彼が犯した過ちを帳消しにはしないが、彼の未来を否定もしない。エンドロールで流れるThe Dearsの音楽が、ほろ苦くも温かい余韻を残す。

僕たちは皆、自分という映画の主人公であり、同時に誰かの人生の脇役でもある。そのことを理解した時、ローレンスの世界は、ビデオ店の狭い通路から、無限に広がる現実世界へと開放されたのだ。

いやホント、いい映画です。自分、映画が好きで良かったッス!

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