青春という名の残酷な季節は、決してファンタジーには成り得ない。
少年と少女の恋の物語は、甘美な道程を経て、醜くも哀しい結末を迎えるものだ。僕達はそうして痛みを知る。裏切ったり裏切られたりして、痛みを知る。それが現実の、等身大の恋物語である。
『ジョゼと虎と魚たち』は、そんな誰もが共有できる生々しい記憶が刻印された恋愛映画だ。
不謹慎を承知で言うなら、ヒロインに「身障者」をすえるということは、筋立て自体はファンタジーに成り得る要素を満たしているということだ。そのような障害を乗り越えて男女が結ばれるのなら、十二分に美しいファンタジーだろう。
だが、物語は甘美な幻想を阻却する。なぜなら、池脇千鶴演じる身障者の少女・ジョゼは、あまりにも諦観している女の子だからだ。たとえば、田辺聖子の原作にはこんな一節がある。
「ジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった」
不器用で負けん気が強いジョゼは、祖母に「壊れもの」と呼ばれている少女である。永遠とも思えるほどに有り余る時間を、ただただ浪費してきた少女である。
そんな彼女が、深い深い海の底から、愛する男と「この世でいちばんえっちなことをするために」海上へと浮かび上がってきた。
性欲と食欲に正直で、女の子とセックスしながらテキトーに毎日を送っているイマドキの男の子を妻夫木聡が嫌みなく演じているが、彼もおそらくジョゼを心から愛していたのだろうし、本気で彼女と結婚も考えていたのだろう。
しかし彼女を自分の両親に会わせようとしたギリギリになって、「ファンタジー」が「リアル」に変質する。嫌な言葉だが、それは彼が「大人」に足を踏み入れた瞬間なのだ。
二人の別離は、「僕が逃げた」という男のナレーションによって唐突に、あまりにも唐突にアナウンスされる。最後の数カ月、男は逡巡を重ねて少しずつ大人になっていったに違いない。
ラストシーン、少年から大人になった男は周りの目もはばからず号泣する。青春という、甘美で残酷な季節に戻れないことに対する慟哭。そして、はじめから大人すぎるほど大人だった女は、男を責めずに受け入れる。
ジョゼが台所にいる最後のシーンは、彼女の諦観が最も色濃く提示された場面といえるだろう。「いつかあんたがおらんようになったら、迷子の貝殻みたいに、ひとりで海の底をコロコロ転がり続けるようになるんやろ」と語った彼女が、まさにひとり海底に取り残される。
おそらくこれ以降も、彼女は一人で台所に立ち続ける…いや、座り続ける。この現実に、僕は正視することができない。この痛切さは10代で十分すぎるほど体験した。
くるりの唄う、あまりにも青くてあまりにも純粋すぎる「ハイウェイ」に、僕はもう車を走らせることはできない。
- 製作年/2003年
- 製作国/日本
- 上映時間/116分
- 監督/犬童一心
- 脚本/渡辺あや
- プロデューサー/久保田修、小川真司
- 共同プロデューサー/井上文雄
- 撮影/蔦井孝洋
- 美術/斉藤岩男
- 照明/疋田ヨシタケ
- 録音/志満順一
- 編集/上野聡一
- 衣裳/石井明子
- 原作/田辺聖子
- 音楽/くるり
- 妻夫木聡
- 池脇千鶴
- 上野樹里
- 新井浩文
- 新屋英子
- 江口徳子
- 真理アンヌ
- SABU
- 大倉孝二
- 荒川良々
- 板尾創路
- 森下能幸
- 佐藤佐吉
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