ディスコミュニケーションを描く手段としてのJホラー
黒沢清は一貫している。ホラーという体裁をとってはいるものの、やはり『回路』(2001年)もディスコミュニケーションに関するテキストだった。
「一番恐ろしいことは死ではなく、孤独である」というポストモダンな閉塞感を描き取る仕掛けとして、「インターネットを介して、こちらの世界と死者の世界との回路が開かれる」というプロットは存在する。ホラーという手法は、そのテーマを表象的になぞる手段にしかすぎない。
とはいっても、古今東西のホラーの名作・怪作・珍作がその脳内にメモリーされている黒沢清だけに(彼は篠崎誠と共著で『黒沢清の恐怖の映画史』という評論集を出版している)、観るものに恐怖を呼び起こす術は神レベル。
幽霊がコケてまた立ち上がるシーンなんて、それだけ書くとずいぶんマヌケに思えるだろうが、良い子のみんなが三日三晩うなされること必至なくらい怖い。マジ、『リング』における貞子の比じゃないッス(余談だが、あの尋常じゃない”恐怖を喚起させる動き”って、ひょっとしたら民俗学的な「型」みたいなものがあるのかもしれない)。
矛盾するようだが、黒沢清にとって幽霊それ自体は恐怖すべき存在ではないのかもしれない。劇中、小雪も「幽霊は人を殺さない」と発言している。
黒沢が好んで使うフィックスのロングショットにより、キャラクターは風景に埋没し、現実なるものと非現実なるものが均等に画面に表出される。つまりその恐怖は、現実界に奇妙なるものが“侵食”していくイメージなのであり、彼岸であったものが此岸となる感触なのである。
この映画でもっとも眼を見張るショットといえば、暗雲たちこめた空に黒煙が渦巻く、「誰もいない街の移動ショット」だ(あれは銀座だろうか?)。たぶん早朝しか撮影許可がとれなかったために、あのような色彩設計にしたんだろうが、あのシーンは東京が荒野と化すイメージが、みごとに具現化されていると思う。
僕がこの映画から受けるメッセージは、価値観や共同体が崩壊したとしても、なおかつ「戦え」という壮烈なものであるために、一層このシーンは印象に残っている。
不満をひとつ。「お前をつかまえればいいんだな!」と加藤晴彦が絶叫してつかかみかかったその幽霊は、物語全編を通して一際浮いている。浮いているって言っても、幽霊だからってことじゃないよ。その存在感があまりにも実体がありすぎるというか、「こちら側」に寄りすぎている気がしてしまったのだ。
幽霊がその存在感を獲得した途端、物語はもはやホラーではなく、世界をサバイヴしていく青春物語に変質する。まあいいっちゃあいいんだけど、幽霊に対する距離感は一定にして欲しかった。
- 製作年/2001年
- 製作国/日本
- 上映時間/118分
- 監督/黒沢清
- 脚本/黒沢清
- 製作/山本洋、萩原敏雄、小野清司、高野力
- プロデューサー/清水俊、奥田誠治、井上健、下田淳行
- 製作総指揮/徳間康快
- 撮影/林淳一郎
- 音楽/羽毛田丈史
- 美術/丸尾知行
- 編集/菊池純一
- 照明/豊見山明長
- 録音/井家眞紀夫
- 加藤晴彦
- 麻生久美子
- 小雪
- 有坂来瞳
- 松尾政寿
- 武田真治
- 菅田俊
- 水橋研二
- 風吹ジュン
- 役所広司
- 哀川翔
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