『風の谷のナウシカ』(1984年/宮崎駿)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『風の谷のナウシカ』(1984年)は、宮崎駿が監督・脚本・原作を務め、雑誌『アニメージュ』で連載中だった自作漫画を映画化した長編アニメーション。高度な産業文明が「火の7日間」と呼ばれる最終戦争で崩壊してから1000年後、有毒な瘴気を放つ巨大な菌類の森「腐海」が地上を覆い、巨大な蟲(むし)たちが支配する極限の世界で、辺境の地「風の谷」の王女ナウシカ(島本須美)が、人間と自然が調和して生きる道を探す事実関係で構成される。物語は、トルメキア帝国の皇女クシュナ(榊原良子)による侵攻と、かつて世界を焼き尽くした最終兵器「巨神兵」の復活を巡る国家間の争いにナウシカが巻き込まれていく。
- 第39回毎日映画コンクール:大藤信郎賞
- 第58回キネマ旬報(日本映画):第7位
偽善的エコロジーの否定
『風の谷のナウシカ』(1984年)が劇場公開された1980年代前半という時代は、高度経済成長の反動として「自然を守ろう」「緑を大切に」という環境保護運動が一般化し始めた時期。
しかし、劇中で描かれる猛毒の森・腐海は、実は人間が汚し尽くした地球の土壌を、数千年の途方もない時間をかけて浄化するための自浄システムだった。
人間こそが地球を侵食する最大の病原菌であり、自然界からすれば「駆除されるべき対象」に過ぎないという絶望的な事実。現代人が好むような人間本位で薄っぺらいエコロジーを、宮崎駿は本作の根底設定において真っ向から冷酷に否定しているのだ。
それに気づきながらも、ナウシカは狂気的なほどの博愛精神で、恐ろしい王蟲をはじめとする異形の蟲たちと人間を全く区別せず、血を流さずに共生できる道を模索し続ける。
そもそも彼女のキャラクター造形は、古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』(紀元前8世紀末)の王女ナウシカアと、平安時代後期の短編集『堤中納言物語』(11世紀後期)に登場する「虫愛づる姫君」という、二つの異質な魂を掛け合わせて生み出されたもの。
凡庸な人間が持ち合わせる「自己保存の情動」を完全に超越してしまった彼女の完璧すぎる聖女としての振る舞いは、ある種の気味悪さを伴って私たちの喉元に突き刺さる。
迷いも個人的な欲望も捨て去り、人間にとっての「死」を象徴する蟲たちへ無償の愛を注ぐその姿は、もはや人間味を欠いた「エイリアン」の慈愛に等しい。
私たち観客が彼女に対して抱く畏怖は、人間の倫理スケールを逸脱した存在に対する本能的な恐怖に他ならないのである。
高畑勲が仕掛けた「奇跡」の罠
物語の終盤、怒り狂う王蟲の大群の前に我が身を投げ出し、青き衣をまとって金色の野に降り立つナウシカの姿に、当時の観客は抗いがたい宗教的なカタルシスを覚えた。
しかし、宮崎駿本人がこのラストを「あまりにも宗教がかってしまった」と激しく後悔したという。実は絵コンテの段階で、ナウシカは王蟲の前に降り立って力尽きるものの、奇跡の復活劇までは明言されていなかった。
それを「映画的なカタルシスと出口が絶対に必要だ」として、宗教的な奇跡の演出へと強引に舵を切らせたのは、プロデューサーである高畑勲と鈴木敏夫。
高畑はのちに、自らが提案したこの結末を「奇跡によって安易に解決してしまった」「大衆を煽動するファシズム的な危険性を孕んでいる」と厳しく自己批判したが、この制作陣内部の強烈な思想的摩擦と妥協こそが、結果として映画に決して色褪せない深みを与えている。
さらに注目すべきは、風の谷という小規模なコミュニティに色濃く漂う社会主義的ユートピアの影である。東映動画時代の苛烈な労働組合活動を経て、若き日の毛沢東が率いた農民革命の幻影を抱えていた心理的左翼の宮崎にとって、族長の娘として労働者(民衆)を導くナウシカは、まさに理想のカリスマ指導者像の強烈な投影だった。
圧倒的な武力と近代兵器で自然を焼き払おうとする軍事帝国トルメキアという西側資本主義・帝国主義のメタファーに対し、小規模な農業共同体が精神力と自然との共生で抗う図式。
そこには、冷戦下の核の恐怖が日常だった時代背景と、マルクス主義的な歴史観が崩壊していく中で、それでもユートピアの可能性を信じようとした宮崎の切実な祈りが込められている。
映画の熱狂が産み落とした、原作漫画という「贖罪」
映画版の大ヒットは、結果的に『アニメージュ』誌上での連載漫画(全7巻)のうち、わずか2巻までの序盤の物語を強引に完結させたものに過ぎない。
高畑らによって用意された宗教的で美しい奇跡の大団円は、エンターテインメント映画としては完璧な成功を収めたが、宮崎本人の内面には決して拭い去れない「嘘をついて観客を騙してしまった」という強烈な罪悪感とトラウマを残すことになったのだ。
彼は、自らの手で作り上げてしまった「救世主(メシア)としてのナウシカ」という絶対的な偶像を徹底的に破壊し、解体するためだけに、その後10年以上の歳月を血を吐くような思いで漫画版の執筆に費やすことになる。
『風の谷のナウシカ』が提示した自然との共生という希望は、長大な漫画版の壮絶な結末において完全に反転する。旧人類が未来の地球のために仕掛けた「清浄な人間を生み出すための箱庭システム(シュワの墓所)」の存在を知ったナウシカは、なんと自らの手でそのシステムを血まみれになって破壊し尽くす。
「いのちは闇の中のまたたく光だ」と叫び、清浄な世界を生きられない汚染された現人類が、血を吐きながら泥にまみれて滅びゆく道を選択する。
それは究極のエゴイズムであり、聖女から破壊者への凄惨な転落である。つまり、この映画は宮崎駿が自らの思想を後戻りできない限界点まで追い詰めてしまったパンドラの箱であり、その後の彼のすべての作品群、とりわけ『もののけ姫』(1997年)へと至る血みどろの思索を決定づけた、恐ろしくも偉大な呪いの原点なのである。
理屈をなぎ倒す「動く快楽」
これほどまでに重厚で、複雑なイデオロギーや独善的ですらあるメッセージが充満しているにもかかわらず、本作が歴史に残る一級のエンターテインメントとして完璧に成立している理由は、アニメーション職人・宮崎駿が持つ「アクション作家としての圧倒的な巧みさ」に尽きる。
当時、制作スタジオのトップクラフトにリュック一つで転がり込み、机の下で寝泊まりしながら原画を描き上げた無名の若手アニメーター・庵野秀明。
彼が手掛けた、巨神兵の肉体がドロドロに溶け崩れながらプロトンビームを放つ悍ましくも美しい破壊の描写は、日本アニメーション史に残る伝説だ。さらに、大地を埋め尽くす王蟲の大群が怒りの紅い光を放って押し寄せる、あの波のようなうねりがもたらす生理的な恐怖感。
そして何より、久石譲が手掛けたミニマルで電子的なシンセサイザーの旋律に乗せて、白い翼メーヴェが風を切り、重力を完全に無効化するナウシカのダイナミックな飛翔感。
これらの映像体験は、小難しい左翼的イデオロギーや宗教的メタファーを完全に超越した視覚と運動の暴力として、観客の脳の理性を心地よく麻痺させる。
宮崎駿は、己の内に秘めた絶望や矛盾、そして哲学的な迷いのすべてを、アニメーションの根源的な動くことの快楽で完全にねじ伏せてしまったのだ。
知的な理屈を通り越し、風を肌で感じさせるこの圧倒的な腕力こそが、彼を世界最強のストーリーテラーたらしめている最大の所以。ナウシカという少女が放つ「無垢なる狂気」の前に、我々が今なお平伏し続ける理由はここにある。
参考文献・出典
- 監督/宮崎駿
- 脚本/宮崎駿
- 製作/高畑勲
- 製作総指揮/徳間康快、近藤道生
- 制作会社/トップクラフト
- 原作/宮崎駿
- 撮影/白神孝始、首藤行朝、清水泰宏、杉浦守
- 音楽/久石譲
- 編集/木田伴子
- 美術/中村光毅
- 録音/斯波重治
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