2026/1/14

『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(2018)徹底解説|記憶と夢が3Dで溶け合う映像体験

『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(2018年/ビー・ガン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
9
GREAT

概要

『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(原題:地球最后的夜晩/2018年)は、ビー・ガン監督が中国・貴州の霧深い風景をキャンバスに、記憶と夢、そして現実の境界を融解させた、映画という体験の極北に位置する傑作である。父の死という喪失を抱え、荒廃した故郷へと足を踏み入れた男ルオが、かつて愛した謎の女ワン・チーウェンの幻影を追うというプロットは、ノワール的なミステリーの衣を纏いつつ、観る者を深い催眠状態へと誘う内省的な旅路へと変貌を遂げていく。

目次

映画史上もっとも美しい儀式

2018年の大晦日、中国全土の映画館で起きた大事件は、映画史に残る完璧な詐欺であり、同時にとびきり美しい奇跡だった。

SNSで拡散された「キスをして年を越そう」という甘ったるい殺し文句に釣られ、何百万組ものカップルが劇場に殺到。誰もが、ポップコーン片手に愛を語り合い、0時のカウントダウンでロマンチックにキスを交わす……そんなお約束のデートムービーを信じて疑わなかった。

ところがスクリーンに映し出されたのは、アンドレイ・タルコフスキーのようにジメジメと暗く、デヴィッド・リンチ以上に意味不明で、ウォン・カーウァイのメランコリーを極限まで煮詰めたような、超ド級の前衛アートフィルムだったのだ。

当時29歳のビー・ガン監督が放った『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(2018年)は、公開初日に『アベンジャーズ』(2012年)クラスの約40億円という興行収入を叩き出しながら、翌日にはブチ切れた観客たちのクレームの嵐で売り上げが90%以上も大暴落するという、トンデモ伝説を作ってしまった。

しかし、この香ばしいマーケティング詐欺を一旦忘れて、冷静にフィルムと向き合ってみよう。そこにあるのは、若き天才がキャリアと莫大な予算のすべてを注ぎ込んだ、映画という名の魔術的儀式である。

記憶の迷宮、ノワールの解体

まず、この映画はとにかく濡れている。比喩などではなく、本当にビチャビチャ濡れているのだ。

映画の前半約70分間、我々は通常の2D映像を通して、主人公ルオ・ホンウ(ホアン・ジュエ)が過去の女ワン・チーウェン(タン・ウェイ)の幻影を追い求め、故郷である貴州省の凱里(カイリ)をあてもなく彷徨う姿を追跡する。その画面のいたるところで冷たい雨が降り注ぎ、壁からはじっとりと水が漏れ、地面の水たまりがネオンの光を反射している。

ここで執拗に描かれる水は、背景の演出という枠を完全に越え、物語という骨組みを溶かすための強力な溶媒として機能している。フィルム・ノワールのお約束をなぞるフリをしながら、ジャンルそのものを液状化してしまう、触覚的シネマとしての試みなのだ。

緑色のドレスを着たタン・ウェイは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』(1958年)に登場するキム・ノヴァクのごとく、主人公の妄想が捏造した理想の女としてスクリーンに立ち尽くしている。

めまい
アルフレッド・ヒッチコック

彼女は本当に実在するのか、それともルオの脳内にのみ存在するのか。観客の平衡感覚を狂わせる歪な映像美は、過去の記憶がまだ定まっていない、いくつもの可能性が重なり合った不確定な世界線を示している。

生々しいドキュメンタリーのような質感と、計算し尽くされた人工的な照明が混在するカオスな世界。そこで我々は強烈な眠気に襲われるのだが、実はこの心地よいまどろみこそが、後半の収束点へ向かうための搭乗手続きなのである。

60分3Dワンカットという“狂気”

映画開始から70分過ぎ、ついにその決定的な瞬間が訪れる。主人公のルオが寂れた映画館に足を踏み入れ、おもむろに3Dメガネをかける。その瞬間、劇場の客席に座る我々もまた、手元に配られた3Dメガネを装着するように促されるのだ。

ルオが「これは映画じゃない」と呟いて深い眠りに落ちた瞬間、画面にはタイトルクレジットがドーンと打ち出され、世界は2Dから3Dへ、不確定な現実からひとつの確固たる夢へと強引に変貌を遂げる。現実の観客のアクションと劇中の人物のアクションが完全にシンクロする、鮮やかなメタフィクションの構造である。

ここからの約60分間、カメラは一度もカットを割ることなく、文字通りのワンショットで動き続ける。このルール無用の60分間は、まさに至高の映像体験だ。

我々が3Dメガネを装着した劇場空間は、ある種の巨大な劇場型メタバースへと姿を変える。200人以上のスタッフが2ヶ月間もリハーサルを繰り返し、広大な廃墟や鉱山跡を実際に移動しながら撮影した一発勝負。デジタルCGで構築された安全なVR空間とは真逆の、人力と物理的な制約を極限まで課したまま行われる、泥臭い仮想現実への没入体験だ。

これまで3D映像という技術は、『アバター』(2009年)のようにオブジェクトを画面から飛び出させるためのギミックとして消費されてきた。

アバター
ジェームズ・キャメロン

しかしビー・ガン監督は、それをアナログなヘッドマウントディスプレイとして再定義し、絶対に触れることのできない記憶の地層の奥底を覗き込むための装置へと進化させたのである。

トラウマの深さと希望の高さ

さらに特筆すべきは、カメラの変態的とも言える立体的な軌道だ。坑道のオンボロなトロッコに乗り込んだかと思えば、そのままドローンに吊り下げられて空を飛び、地上に降りてはワイヤーアクションで広場を優雅に滑空する。

この激しい高低差を伴うジェットコースターのような移動。凱里という土地の廃墟や鉱山が持つ立体的構造を活用して、過去のトラウマの深さと未来の希望の高さという、目に見えない感情の垂直軸を空間内にマッピングしているのだ。

フランスから招かれた撮影監督ダヴィッド・シザレの手によって、重力を完全に喪失した夢の世界が、一切の編集を許さない持続する時間のなかでじっくりと描かれる。圧倒的な映像の暴力が物語の筋書きを完全にねじ伏せ、我々はそれを生々しい本物の夢として受け止めてしまう。

ラストシーン。回転する部屋の中で、男は女に向かって「時計は永遠の象徴だが、花火は儚さの象徴だ」と語りかける。二人のキスと共に花火に火がつけられ、その眩い火花がパチパチと燃え尽きるのと同時に、映画はプツリと突然の終わりを迎える。

前半でドロドロに液状化していた記憶は、空間を自由に浮遊したのち、最後には花火という光の気体へと見事な相転移を果たしたのである。

ショート動画が猛スピードでスクロール消費されていく現代において、映画館という暗闇に観客を強制的に監禁し、持続する時間のなかでしか絶対に味わえない他人の夢を体験させる。

この途方もない心意気と野心に、僕は最大限の敬意と拍手を送るものであります。

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