『ローレライ』(2005年/樋口真嗣)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ローレライ』(2005年)は、福井晴敏の小説『終戦のローレライ』を原作に、第二次世界大戦末期の緊迫した洋上を描いた戦争SFアクション。物語の舞台は1945年8月。日本滅亡の危機を救うため、極秘兵器「ローレライ・システム」を搭載した潜水艦・伊507号が、米軍の「第三の原爆」投下を阻止すべく最期の戦いに挑む。樋口真嗣が監督を務め、役所広司や妻夫木聡ら豪華キャストが集結。最新のVFXを駆使した潜水艦の戦闘シーンは見応え十分だ。
潜水艦の中のアニメーション
オタクの、オタクによる、オタクのための潜水艦映画。『ローレライ』(2005年)は、2000年代の日本映画において、色々な意味で特異点のような作品だった。
特撮界の寵児だった監督の樋口真嗣を筆頭に、メカ・コスチュームデザインに出渕裕、画コンテ協力に庵野秀明といった面々が顔を揃え、さらには『機動戦士ガンダム』(1979年)の生みの親である富野由悠季までが、反乱軍の将校役でカメオ出演。
このスタッフとキャストの構成が示しているのは、ある種の映像的な共同幻想が実写映画というスクリーン上で堂々と顕現したという事実だ。
戦後日本が脈々と培ってきたアニメーションや特撮の文化が、潤沢な予算を与えられた実写大作という器のなかで再構築された瞬間。スクリーン上に浮かび上がるのは、鉄と油の匂いがするリアルな潜水艦兵器のドラマではなく、むしろ洗練されたアニメーション的想像力そのものだった。
ベースとなったフランスの大型潜水艦シュルクーフの特異なフォルムもさることながら、劇中での見せ方が完全にアニメのそれなのだ。たとえば、ピエール瀧が演じる先任将校が熱い咆哮とともに特殊兵器を発射するその大げさなカット割りは、どう見ても『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)における波動砲発射シークエンスの完全な実写トレースである。
ここには、悲惨な戦争の写実も、息が詰まるような軍事の現実も存在しない。ただひたすらに、オタク文化のなかで醸成されてきた記号としての戦争が反復されている。
第二次世界大戦末期の太平洋という歴史的な舞台を借りながらも、そこで展開されるのは史実の重みからは切り離されたエンターテインメントだ。
その意味で本作は、重厚な戦争映画という体裁を精巧に装いつつ、実は戦後サブカルチャーの集大成を見せつけるための壮大なアニメーション的儀式だったと言っていい。
綾波レイの亡霊と無機質なフィギュアの身体
香椎由宇が演じるヒロインのパウラは、このむさ苦しい男たちの戦場において、まるで霊媒のような特異な存在として配置されている。
彼女はラバー状の特殊なスーツを巻き付けた身体で潜水艦「伊507」の特殊兵器「ローレライ・システム」に乗り込み、水という媒体を通じた精神感応によって敵艦隊の動きを三次元的に察知してみせる。
彼女が能力の限界を迎えて気絶するたびに、物語の重力は歪み、現実は神経的なノイズで満たされていく。精神と肉体、巨大兵器と孤独な少女、そして科学技術とオカルト。
その境界線がシームレスに融解していくさまは、まさに『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)に登場する綾波レイの亡霊が、この実写映画の心臓部に宿っていることをはっきりと示している。
庵野秀明が画コンテ協力としてこのプロジェクトに参加しているのも、単なる偶然ではないだろう。「自己犠牲を強いられるヒロインの自壊」と「それによって引き起こされる主人公の覚醒」という、彼自身が過去に提示し、ゼロ年代のセカイ系作品群へと受け継がれていった構造を、樋口真嗣は潜水艦という閉鎖空間へと移植してみせたのだ。
だが、その模倣はどこか異様に硬質で、血の通わないフィギュア的な質感を帯びている。香椎由宇の人間離れした整いすぎた顔立ちと肉体は、あくまで象徴であり、物語を駆動させるための美しい記号として機能している。
彼女が泣き、苦しみ、気絶するたびに、僕たちは生々しい人間の感情に触れるというよりは、あらかじめ緻密に設計された美しい構造を見せられている気分になる。
彼女は生身の人間であることを剥奪され、オタク的な欲望と神話が投影された器としてのみ、そこに存在しているのだ。
ニュータイプ神話の再演とシミュレーションの戦場
そしてこの作品の深層には、明確にガンダムの系譜が力強く流れている。原作者である福井晴敏自身が、かつて富野由悠季の小説版『ターンエーガンダム』(1999年)を手がけたほどの熱狂的なファンであり、後に『機動戦士ガンダムUC』(2010年)を生み出す人物であることを考えれば、それは必然だ(すいません、僕はどっちも読んでないですけど)。
パウラの精神感応能力は、言うまでもなくニュータイプ概念の変奏。妻夫木聡演じる若い主人公の折笠は、そんな彼女の孤独に触れ、戦争という不条理のなかで自分なりの戦う理由を見出していく。
物語を牽引する最大の対立軸も、驚くほどガンダム的だ。堤真一が演じる浅倉大佐は、完全にシャア・アズナブルの系譜に連なるダーク・カリスマとして描かれている。
彼は腐敗した日本を一度完全に破壊し、第三の原爆を東京に落とすことによって、アメリカへの従属を拒む「選ばれし民族」を新たに生み出そうと画策する。
つまり、戦争というものを人類進化や国家浄化の触媒とみなし、破壊によるリセットを本気で信じている狂気の思想家なのだ。彼が企む東京への原爆投下は、ガンダムにおける地球へのコロニー落としの完全なアナロジーである。
その強烈な対立項として立ち塞がるのが、役所広司演じる絹見艦長だ。彼は冷酷な理念や狂った大義よりも、目の前にある人命と現実を泥臭く選び取る、いわばアムロ・レイやブライト・ノアの役割を担っている。
この二人の男によるイデオロギーの衝突は、そのまま『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年)における小惑星アクシズ落下を巡る最終対決の構図を、第二次世界大戦の海へとスライドさせたものだ。
福井晴敏がここで描こうとしたのは、戦後の平和な倫理を飛び越えてなおオタクの心の中で繰り返される「選民思想の亡霊」であり、神話の暴走形態にほかならない。
アニメ文化の成熟と、失われた70年代の熱
これだけ壮大な設定とテーマが盛り込まれていながら、本作には火薬の泥臭い匂いも、閉鎖空間特有のじめっとした硝煙の湿度もほとんど感じられない。スクリーンにあるのは、徹底的にデザインされた戦争の再現であって、戦争そのものの恐怖ではないからだ。
つまりこの映画は、実際に戦場を体験した世代が遺す血肉の通った映画ではなく、戦争をアニメやプラモデル、小説の知識として継承し、消費してきた世代による、きわめて自覚的で高度なシミュレーション・シネマなのである。
だからこそ、劇中で展開されるすべての戦闘はゲーム的であり、男たちの熱い議論もどこか机上の空論めいて響く。役所広司の重厚な演技がなんとか実写映画としてのリアリティを繋ぎ止めているものの、艦長と大佐の命懸けの対立すら、実際の血の匂いを持たず、よくできた思想実験のレベルにとどまっている。
しかし、これは決して単なる作品の欠陥ではなく、アニメを通じて戦争を疑似体験してきた僕たちのような世代が抱える、逃れられない宿命みたいなものだ。
戦争が「語り継がれる悲惨な実体験」から「エンタメとして引用される記号」へと完全に変質した瞬間を、この映画は図らずも証明してしまった。
結局のところ、ここにはかつての日本映画にあったような、画面を焼き尽くすような生々しい熱がない。樋口や福井が深く愛したはずの1970年代の『日本沈没』(1973年)や『野獣死すべし』(1980年)が持っていた、時代の狂気とリンクする異常な生命力。その熱量は、皮肉なことにここには継承されなかった。
あるのは、洗練されたVFX技術、整然と組み上げられた脚本、そして美しいデザインだけだ。血と汗と泥にまみれた人間の映画ではなく、無菌室のガラスケースのなかで完璧な動きを見せる超高級プラモデルのような映画。
アニメーション文化の成熟と引き換えに、日本映画が失ってしまった「生々しい熱」の美しき墓碑銘として、本作は今も静かに沈み続けている。
参考文献・出典
- 監督/樋口真嗣
- 脚本/鈴木智
- 製作/亀山千広、臼井裕詞、市川南
- 製作総指揮/島谷能成、関一由、千草宗一郎、大月俊倫、甘木モリオ
- 原作/福井晴敏
- 撮影/佐光朗
- 音楽/佐藤直紀
- 編集/奥田浩史
- 美術/清水剛
- 録音/鶴牧仁
- 照明/渡邊孝一
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