2026/5/22

『メイド・イン・U.S.A.』(1966)徹底解説|ゴダールによる血塗られたディズニー映画

『メイド・イン・U.S.A.』(1966年/ジャン=リュック・ゴダール)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
7
GOOD

概要

『メイド・イン・U.S.A.』(原題:Made in U.S.A./1966年)は、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めたサスペンス映画。架空の都市アトランチック・シティに、かつての愛人リシャールからの電報を受け取ったポーラが降り立つ。しかし、彼女が到着する直前にリシャールは心臓麻痺という不可解な理由で急死していた。彼の死の真相を探り始めたポーラは、情報屋のチフスとその甥の詩人デヴィッド、ウィドマークとドナルドという名のギャング、そしてパリからやってきたアルドリッチ刑事など、奇妙な人物たちに取り囲まれる。暴力と殺戮がポップな色彩で描かれる狂気の迷路の果てに、ポーラがデヴィッドの力を借りて自らの手で事件に冷徹な終止符を打つまでが描かれる。

目次

ポップアートとして再構築された血まみれのディズニー

ジャン=リュック・ゴダールが1966年に放った『メイド・イン・USA』(1966年)は、冒頭からいきなり凄まじい。画面には飛行機など一切映っていないのに、突然ジェット機の爆音が鳴り響くのだ。

そこにカラフルなセーターを着たアンナ・カリーナが現れ、何やら謎のテキストを朗読し始める。その姿がただただ可愛らしく、開始数秒で僕のテンションは爆上がりしてしまう。

そもそも、なぜフランス映画でありながらメイド・イン・USAというタイトルなのか。それは本作が、アメリカン・ノワールや大量消費社会のポップカルチャーといったアメリカ製の意匠をゴダール流に解体し、パッチワークのように再構築したキッチュな実験作だからだ。

だから当然、お話もだいぶしっちゃかめっちゃかになる。主人公の女性ジャーナリストであるポーラ・ネルソンが、かつての恋人の死の真相を追ってアトランチック・シティという架空の都市を彷徨う。一応そんなハードボイルド調の筋立ては用意されているものの、それはあくまでジャンルの外枠を借りた言い訳に過ぎない。

作中でポーラのモノローグが「今や虚構が現実を凌ぐ。今や流血と謎の世界。まるでハンフリー・ボガート主演のディズニー映画」と語る通り、全編が極彩色に彩られたポップアートの展覧会としてハイテンションに展開していく。この感覚がとてつもなくポップで狂っているのだ。

盟友であったフランソワ・トリュフォーはアルフレッド・ヒッチコック的なサスペンスの文法を研究し、『黒衣の花嫁』(1968年)のように物語るための古典的技法を洗練させていった。

黒衣の花嫁
フランソワ・トリュフォー

それに対し、ゴダールは真逆のベクトルへとアクセルをベタ踏みしている。サスペンスの構造を借りながらも謎解きを早々に放棄した本作は、映画は物語を語るための器ではないというトリュフォー的な古典主義に対する過激なアンチテーゼだ。

ゴダールはミステリーとしての整合性をゲラゲラ笑いながら解体している節がある。ポーラがトレンチコートを羽織りタバコを吹かす姿は最高にクールだが、彼女が誰と対立し何を暴こうとしているのかというプロットの進行は、次第にどうでもよくなっていく。

物語の起承転結という観客へのサービス精神をへし折り、ひたすらに感覚的なカッコよさを追求する潔すぎる開き直りっぷりには、痛快さを通り越して思わず笑いが込み上げてくる。

デタラメなカッティングと無数の引用によるコラージュ

本作の骨格はリチャード・スターク名義でドナルド・E・ウェストレイクが執筆した小説『悪党パーカー/死者の遺産』(1965年)をベースにしている。

ところがゴダールは、原作者から映画化の許諾をとらないまま無断で撮影を強行してしまった。結果としてウェストレイク側から見事に提訴され、アメリカ国内では彼が亡くなる直前の2009年頃まで長らく商業公開が見送られていたという、とんでもないいわくつきの歴史を背負っている。

この著作権無視の傍若無人な製作背景すら、既存のルールを破壊しようとする当時のパンク精神を象徴しているようで面白すぎるのだが、映画自体のカッティングも負けず劣らずデタラメの極みだ。

男を気絶させる殺伐としたシーンの直後、なんの脈絡もなくデヴィッド・グーディスと名乗る男がタイプライターを激しく打ちながらポーラと喋っているカットに飛ぶ。さらに洗面所では、ドリス・ミゾグチという日本人がなぜかギターをつまびきながら歌っているのだ。

しかも、これだけ全編がセリフだらけの構成でありながら、作中では「文章は無駄の集積」なんていう自己矛盾の極みのようなセリフまで飛び出してくる。もう本当に訳がわからない。

役名もやりたい放題だ。ジャン=ピエール・レオ演じるドン・シーゲル、ラズロ・サボ演じるリチャード・ウィドマーク、さらにはケンジ・ミゾグチ(溝口健二)、デヴィッド・グーディスといった実在の映画監督や俳優や作家の名前がそのまま使われている。

犯罪映画のお約束をサンプリングし、無関係な固有名詞で煙に巻くこの手法は、のちのクエンティン・タランティーノへと直結する見事なコラージュ感覚だ。

肝心なものは見せないイケズなジャンプカット

映画の真髄は物語の内容ではなく、圧倒的なカッティングと構図の美しさにある。本作はその究極の証明だ。ここには映画的奥行きを徹底的に排除したラウール・クタールの撮影術が神がかり的に光っている。

シネマスコープよりも安価で画質がやや粗くなるテクニスコープを採用し、被写体の陰影を極力なくすフラットな照明を当てた。画面全体をピエト・モンドリアンの絵画のような平面アートとして捉え直しているのだ。

さらに登場人物たちが会話しているにもかかわらず、目線が全く合っていないカットが頻出する。ある者はカメラ目線で語り、もう一人は画面の外の虚空を見つめているなど、切り返しのショットが空間的にまったく連続しない。これにより観客はアトランチック・シティという街の位置関係を完全にロストし、常に宙吊りの迷子感覚を味わうことになる。

ドアをモールス信号のようにノックする小柄な男とカリーナの身長差が、いかにも映画的な高低差の視覚ポイントとして機能している。「どの靴が合う?」と聞いていきなり男を殴打するシーン。

腕を振り上げるカットの直後、こめかみから血を流して倒れている男のカットへ飛ぶ。ゴダールの映画において、決定的瞬間はいつもジャンプカットで乱暴に繋がれる。

死体を発見するクリニックで、拳銃を持った男が現れるシーンもそうだ。きっとハードボイルドな大立ち回りが繰り広げられたはずなのだけど、次のカットでは階段を足早に降りていくカリーナの姿に飛んでしまう。肝心なところは絶対に見せてくれない。本当にゴダールは底意地の悪いイケズな監督だ。

だが、そのフラストレーションを補って余りあるほど画面のコンポジションは洗練されきっている。女性が汗を流しているジムで、双子の女性に挟まれるカリーナの完璧な対称性。

そして彼女が奥に向かって道を歩いていくとき、左側の窓から突然手が伸びてきて襲いかかるショットの、アクション的なカッコよさ。ただただ痺れるしかない。

暴力的ノイズとトリコロールが支配するコンポジション

そして本作の最もスリリングな仕掛けが、アニエス・ギュモの編集による音響的マスキングと色彩の氾濫だ。

ジャン=ジョレス通り44番地に切り替わるカットの壁の絵に注目してほしい。黒、黄色、赤、青のヴィヴィッドな色彩がバウハウス的な強烈なコンポジションを生み出しており、こういうグラフィカルなセンスに僕は一瞬で心を持っていかれる。

そこへカリーナが左からフレームインしてタバコを吸う。ジャジャーンというクラシック音楽の響きとともに、ものすごい極端なクローズアップが二度繰り返される。いやもう、文句のつけようがないほどカッコいい。

彼女がタバコを吸う背後の壁に貼られたポスターすらもいちいちヴィヴィッドで、細部に至るまで見事なポップアート的センスに溢れかえっている。

音響の使い方も容赦なく暴力的だ。カリーナが「リシャル・ポ…」と事件の核心に触れる名前を口にしようとするたび、必ず爆音が入って意地悪く邪魔をされる。さらに音がいきなり消える無音演出のあと、ギターの音が聞こえたと思ったらドリス・ミゾグチが殺されているのだ。

凄惨な血の赤すらも、ゴダール映画のなかではトリコロールを構成するポップな色彩要素のひとつとしてあっけなく回収されてしまう。

政治的袋小路のなかで誕生したミューズへの決別

現実世界における不条理で全貌が掴めない政治的暴力を、意図的に支離滅裂にされたハードボイルドの構造に仮託して表現するアプローチ。

重要な事実ほど隠蔽され、人々の耳にはノイズしか届かないという本作の音響演出は、情報の真偽が曖昧な現代社会への痛烈な風刺として今なお鋭く機能している。

ここにもう一つ、決定的な考察の視点を加えたい。本作は物語の文脈を剥ぎ取り、刺激的な視覚と音響の断片だけを抽出してランダムに繋ぎ合わせている。

これは意味や文脈よりも純粋な視覚的インパクトを単発で消費し続ける現代のSNSショート動画のアルゴリズムを、半世紀以上も前に予見し極限まで先鋭化させたスタイルと言える。ゴダールは1966年の時点で、すでに映画を90分のショート動画へと解体してしまっていたのだ。

そして本作は、ゴダールとアンナ・カリーナによる長編映画としての最後のコラボレーションとなった。

前作『気狂いピエロ』(1965年)でもすでに色彩の氾濫や物語からの逸脱は顕著だったが、あちらにはまだロードムービーとしての叙情性やロマンティシズムが微熱のように残されていた。

気狂いピエロ
ジャン=リュック・ゴダール

しかし本作ではそれらの一切を削ぎ落とし、観客に感情移入の余地を与えない冷徹な記号と音響の実験場へと映画を変貌させている。

ここから彼は、さらに政治的で難解なジガ・ヴェルトフ集団の時代へと突入していくのだ。僕にはこれが、ゴダールから最大のミューズであったカリーナへの、最も冷酷で美しい別れの挨拶のようにも思える。

従来の映画が持つわかりやすいカタルシスを求めれば、難解な失敗作にみえるかもしれない。しかし、純粋な視覚的リズムと意味を解体していく前衛的なアート作品として向き合ったとき、本作は今なお鼓膜と網膜に鮮烈な刺激を放ち続ける。

物語の呪縛から映画を解放しようとした稀代のシネアストによる、最もクールでパンクな映像の実験報告書だ。

ジャン=リュック・ゴダール 監督作品レビュー