極めて古典的な物語構造に回帰したシリーズ最終作
ジャパニメーション大好きのウォシャウスキー兄弟が、そのオタク的教養を臆面もなくさらけ出したのが『マトリックス』シリーズであるわけだが、『マトリックス レボリューションズ』(2003年)ではその引用参照元すら、臆面もなく露呈してしまった。
ザイオン対センチネルの闘いは『機動警察パトレイバー』(1989年)だし、ネオ対スミスの決闘シーンは『ドラゴンボールZ」(1989年)だし、ネオがデウス・エクス・マキナに連れ去られるシーンは『風の谷のナウシカ』(1984年)だ。俺には、ラン ランララ ランランラン♪というBGMが勝手に脳内で再生したぞ!!
形而上的な問題が次々と提出されて、大部分はその問題が解消されないまま、ジ・エンド。何かつけ「選択したから」って言われてもよく分からん!
とにかく観客をケムにまくだけまいて、後は圧倒的なビジュアルの力で押し切ってしまうやり方は、相撲に例えれば「ネコだまし→寄り切り」ってなトコロで、安易な虚仮威し的演出のような気がしてならない。
例えば、「なぜ現実界でもネオが超能力を使えたのか」という疑問が、『マトリックス リローデッド』(2003年)で提示された最大の謎であったはずにもかかわらず、説明はオラクルの「選ばれし者の力がこの世界を超越した」という一言のみ。これじゃあ、肩透かしにしてもヒドすぎるのではないか。
哲学的モチーフで、『マトリックス』シリーズをネクストレベルに引き上げようとしたウォシャウスキー兄弟の意気込みは買うが、詰まるところ「愛」という意外に陳腐な、じゃなかった、普遍的なテーマでしか物語の収拾をはかれない事態に陥ってしまい、お世辞にもその冒険は成功したとは言いがたし。
そう、この『マトリックス』は詰まるところ、愛についての映画なのだ。その象徴的存在が、プログラムの少女サティー。「存在理由がなければ消滅させられる」運命にある彼女を、プログラムの両親が(なぜかインド人の容姿でした)マトリックス世界に脱出させた“最後のエグザイル”。その行動原理は愛そのものであって、ネオはプログラムにそれが理解できることを訝しむのである。
しかしそのネオ自身も、ザイオンの人々よりもトリニティー1人の生命を救うことを選択した恋愛至上主義者だったりするのだが。このような古典的な「愛」が物語を牽引する原動力になってしまっている時点で、物語も古典的に収束せざるを得ない。
「古典的」という意味で象徴的なのは、これだけ大風呂敷を広げておきながら、クライマックスがエージェント・スミスとの単なる殴り合いだったこと。
これは芥川賞作家の阿部和重も指摘していたことだけども、殴り合いとは、ジョン・フォードが活躍した映画黎明期から綿々と受け継がれている、極めて古典的な振る舞いなのだ。
これは作劇上の限界を露呈していると同時に、「物語の再生産」というハリウッド的計算が色濃く反映されているシーンとも言えるだろう。『マトリックス』は御大層なフィロソフィーと最新のVFXでデコレーションを施してはいるものの、物語構造は極めて古典的なんである。
えーという訳で、とりあえず『マトリックス レボリューションズ』における最大の見ものは、ザイオンでの戦闘シーンにおけるキャプテン・ミフネの死にっぷりだと思われます。漢だね、ミフネ!!
《補足》
ウォシャウスキー兄弟の兄、ラリー・ウォシャウスキーが性転換手術を行ったとのこと。彼はもともと女装癖があり、実生活でも「ラリー」ではなく「リンダ」として生活していたんだそうだ。
これで晴れて身も心も完全に「リンダ・ウォシャウスキー」になる訳だが、これ以降ウォシャウスキー兄弟ではなくウォシャウスキー姉弟と名乗るのかどうかは謎である。
- 原題/The Matrix Revolutions
- 製作年/2003年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/129分
- 監督/アンディー&ラリー・ウォシャウスキー
- 脚本/アンディー&ラリー・ウォシャウスキー
- 製作/ジョエル・シルヴァー
- 製作総指揮/ブルース・バーマン
- 撮影/ビル・ポープ
- 音楽/ドン・デービス
- 美術/オーウェン・ペイターソン
- 編集/ザック・スタンバーグ
- 衣裳/キム・バレット
- 特撮監修/ジョン・ゲイター
- キアヌ・リーブス
- ローレンス・フィッシュバーン
- キャリー・アン・モス
- モニカ・ベルッチ
- ヒューゴ・ウィーヴィング
- マット・マッコーム
- ジェイダ・ピンケット=スミス
- ランベール・ウィルソン
- ハロルド・ペリノー
- ハリー・J・レニックス
- ノーナ・M・ゲイ
- メアリー・アリス
- ヘルムート・バカイティス
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