徹底的に小劇団的なエンターテインメントで突っ走った暴走作
唐突の話ですが。オウム真理教の新しさとは、修行のうえに得た神秘体験も、ドラッグ使用によるアッパー状態も、等価なものとして扱ってしまった点にあると思う。
プロセスはどうでもよくて、結果的に覚醒しちゃえばオールオッケーみたいな。麻原が信者たちに示した定義っていうのは実に分かりやすくて、その「明快さ」に多くの人間がひきつけられたのではないかと思っている。しりあがり寿原作の『真夜中の弥次さん喜多さん』(2005年)もまた、明快な映画だ。
弥次さんと喜多さんが追い求める「リヤル」とは、生きている手触りであり、生への査証である。喜多さんがドラッグ中毒なのは、空虚な現実よりもハイな幻覚世界に「リヤル」を感じるからだ。
プロセスをすっとばして結果に直リンするという手法のお手軽さは、まさに現代的な主題として「リヤルに」僕らに響く。
だから、異常とも言えるこの映画のハイテンションさは、生理的な好き嫌いはあるにせよ、作品としてのアプローチとしては大正解なのだ。宮藤官九郎が雨あられと大量放出する小ネタって、三谷幸喜のように周到な伏線を張り巡らせたコメディーとは違い、場当たり的というか、その場のノリ的な即興性がキモ。
そのシュールなエピソードが上映時間中ず~っと乱射され続けるテンションの高さゆえに、現実と虚構の世界を行き来する物語が保証される。お伊勢参りの旅へバイクで行こうとして、寺島進にとめられるシーンなんぞ、この物語が現実と虚構の挟間にある作品であることを、端的に表象しているんではないか。
じゃあその小ネタの嵐で笑えるかっていうと、基本的に僕は全然笑えない訳でして、これはもう感性の問題だから仕方ないんだが、これはこれでいいと思うのである。この映画って、実はとっても純文学的なテーマを、徹底的に小劇団的なエンターテインメントで突っ走った作品だと思うからだ。
異論・反論は多々あるでしょうが、実験作ではなく、暴走作としてとにかくやりきったことに対して、僕的にはクドカンに敬意を表したい気持ちです。
- 製作年/2005年
- 製作国/日本
- 上映時間/124分
- 監督/宮藤官九郎
- 脚本/宮藤官九郎
- チーフプロデューサー/豊島雅郎、小川真司
- プロデューサー/宇田充、藤田義則
- 撮影/山中敏康
- 美術/中澤克巳
- 照明/椎原教貴
- 編集/上野聡一
- 原作/しりあがり寿
- 音楽/ZAZEN BOYS
- 長瀬智也
- 中村七之助
- 小池栄子
- 阿部サダヲ
- 竹内力
- 森下愛子
- 古田新太
- 山口智充
- 清水ゆみ
- 松尾スズキ
- 中村勘九郎
- 研ナオコ
- ARATA
- 麻生久美子
- 荒川良々
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