2026/5/23

『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(2025)徹底解説|ジャンプスケアに頼らない極上の恐怖

『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(2025年/近藤亮太)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
6
OKAY

概要

『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(2025年)は近藤亮太監督が原案も兼ね、Jホラーの巨匠・清水崇を総合プロデュースに迎えて生み出した、観客の視覚と心理をじわじわと侵食していく極上かつ先鋭的な心理的ホラー映画である。幼少期に山でのかくれんぼの最中、弟の日向を突如として失ったトラウマに囚われ続ける青年・敬太。行方不明者捜索のボランティアに身を投じる彼のもとに届いた一本の古いVHSテープ。そこに記録されていたのは、無人の空間で戯れる兄弟の姿と、弟が現実の裂け目に吸い込まれるように「消失」する戦慄の瞬間だった。敬太は、霊感を持つ同居人の司、そして自身を取材する新聞記者の美琴と共に、呪われた記憶の舞台である摩白山へと足を踏み入れる。

目次

深夜テレビ枠の騙し討ちとフェイクドキュメンタリー界隈の極北

ここ数年、日本のホラー界隈で最も熱狂的な支持を集めているのが、モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)の領域だ。

YouTubeの『ゾゾゾ』から始まる皆口大地や寺内康太郎ライン(『フェイクドキュメンタリーQ』など)に加え、ネット怪談発の梨や背筋といったクリエイターたちが入り乱れ、様々な仕掛けのホラー作品が次々と生み出されている。

なかでも僕が熱心に追っているのが、テレビ東京の大森時生プロデューサーが手がける深夜番組群だ。とくに2021年の年末に放送された『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』(2021年)には心底度肝を抜かれた。

当時Aマッソのふたりが結婚を発表した絶好のタイミングで、育児や家事に大忙しの奥様のもとへお助け芸能人がやってくるという、文字通り死ぬほどつまらなそうなバラエティー番組の体裁をとっておきながら、集中して見ていると随所に不可解なノイズが混じり、実はゴリゴリの考察系ホラーだったことが判明する。

テレビのフォーマットを悪用した見事な騙し討ちホラーであり、その後の『イシナガキクエを探しています』(2024年)や『飯沼一家に謝罪します』(2024年)といった大バズりコンテンツへと続く起爆剤となった。

今回紹介する『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(2025年)は、その『飯沼一家に謝罪します』の演出を務めた近藤亮太が監督を手がけた本格劇映画だ。

そして総合プロデュースを務めるのは、『犬鳴村』(2020年)などの村シリーズをはじめ、最近ホラーマイスターとして監督・監修・プロデュースとまさに八面六臂大活躍を見せている清水崇。

正直、僕はホラーがあまり得意ではないのだが、この座組への期待値だけで観に行き、結果として背筋が凍るほどの極上恐怖体験を味わうことになった。いやー、本当に素晴らしい映画だ。

見せない恐怖の美学とアナログビデオテープの呪縛

本作は劇映画ならではの「らしさ」に溢れている。

鈴の音やビデオノイズを駆使した不穏な効果音演出、あえて決定的な場面を描かないストイックな省略演出、そして何気ない日常描写を丁寧に積み重ねることで、恐怖がすぐそばにあることを想起させる秀逸な日常演出。

Jホラーの伝統的な文脈をしっかりと踏襲しているのだが、特筆すべきは近藤監督が本作の制作にあたって自らに課したという「ノーCG、ノー特殊メイク、ノージャンプスケア」という3つの絶対ルールだ。

とくに「ノー特殊メイク」という縛りが、この映画の異常な怖さを決定づけている。『リング』(1998年)の貞子や『呪怨』(2003年)の佐伯俊雄のような、全身白塗りで強烈ビジュアルを提示するのが現代ホラーの定石だが、本作はそこへ逃げない。

かつてスティーヴン・スピルバーグ大先生が「一番怖いのは観客が勝手に想像することだ」と語っていた通り、恐怖の対象を徹底的に見せないことで、僕たちの脳内に最悪の想像を呼び起こさせるのだ。

向こう側の世界にいる何かを「ぷよぷよ」という言葉だけで形容するくだりなどは、具体的な造形がさっぱり分からないからこそ、めちゃめちゃ怖い!

さらに、4Kだ8Kだと解像度競争が激化する現代において、不鮮明で時折ノイズが走る「ビデオテープ」というアナログ媒体が持つ生理的恐怖を見事に突いている。

行方不明になった弟ヒナタのビデオテープの中で、兄のケイタが彼を見つけて「はいみっけ」とカメラを向けるシーン。子供の素人撮影でありながら、ヒナタをしっかりズームアップし、彼が画面右へ消えるやいなやスッとズームダウンして元の距離感に戻る。この無自覚な素人演出が、結果的に完璧なホラー文脈として機能してしまっている気味の悪さもたまらない。

細かい恐怖描写の打率も異常に高い。学習塾で新聞記者の女性が子供に挨拶すると、女の子が虚空をじっと見つめていて、振り返ると誰もいないという王道の手口。

あるいは、ケイタの実家にいるツカサの前に母親の幽霊が現れると思いきや、まさかのケイタがいる宿の方に現れるという裏切り展開。そして冒頭、くまよけの鈴を持たせた子供をケイタが抱っこして歩いている際、不意に子供が鈴を鳴らすのだが、ケイタは別の方向を向いているため何に対して鳴らしたのか全くわからないという視線のズレ。

どれも背筋がゾワリとする傑作シーンだ。

土着ホラーの畏怖と崩壊家族のサニーサイド逃避行

中盤、彼らが山深くへと足を踏み入れていくシーン。ここでカメラはかなり贅沢に尺をとって、ダイナミックなクレーンアップショットを見せつける。

それまでフィックス(固定カメラ)による静謐な絵作りが中心だったからこそ、この縦の動きが強烈に効いてくる。直後にインサートされる畏怖すべき山々のショットと相まって、人間ではどうすることもできない自然の恐怖や、「足を踏み入れてはならない神域に来てしまった」という感覚がひしひしと伝わってくる。

かつて少女たちの神隠しを描いた、ピーター・ウィアー監督の『ピクニックatハンギングロック』(1975年)を彷彿とさせる、土着ホラー特有の不気味さだ。

そしてこの山の恐怖を決定づけるのが、地元民として登場する吉田山羊という役者さんの圧倒的怪演である(僕は最初、顔や声のトーンからバッドボーイズの清人さんだと完全に思い込んでいた)。

「おばあちゃんが山に入ってから一度も生理にならなかった。そうなると僕の母親はおばあちゃんのなんなんだ」という戦慄の身の上話と、彼のボソボソとした喋り方のコントラストが凄まじい。

ずっと中央フィックスで捉えられていた彼が、「あの山は神様を捨てる場所だ」と呟く瞬間だけバストショットに切り替わる、あの静と動の演出には心臓が跳ね上がった。

そして物語の根底には、セクシャルマイノリティと家族という制度の崩壊が横たわっている。ケイタとツカサがゲイカップルかもしれないという関係性は明確に明言されず、観客の読解に委ねる心地よい余白として残されている。

ケイタが「みんな家族って役割を演じている」と吐露するように、彼の家族はとっくの昔に崩壊しているのだが、映画はそれをストレートな愛憎劇として描くことを周到に回避している。これを正面からやるとアリ・アスター監督の胸糞家族ホラーになってしまうところを、絶妙な寸止めで寸断しているのだ。

最後に、この映画の結末についてひとつの解釈を提示しておきたい。ラストでツカサは向こう側の世界へと足を踏み入れてしまう。普通に考えればそこは黄泉の国であり、恐ろしいダークサイドだ。

しかし、本当にそうだろうか。最近の痛ましいニュースばかりを見ていると、僕たちが生きているこの現実社会こそが修羅の地獄であり、実はツカサが向かった先こそが救済の地、サニーサイドだったのではないかとふと思ってしまうのだ。

失踪した弟の名前は「ヒナタ(日向)」であり、彼らが向かった山の名前は黒ではなく「摩白山」。このネーミング自体が、あちら側こそが純白の光の世界であることを暗示しているように思えてならない。

『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は、ただ怖いだけでなく、僕たちの生きる現実の絶望を逆照射してくる、とてつもなく深く、そして優しいホラー映画なのかもしれない。

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近藤亮太 監督作品レビュー