『寝ても覚めても』(2018年/濱口竜介)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『寝ても覚めても』(2018年)は、柴崎友香の同名小説を濱口竜介監督が映画化した、理不尽で切実な愛の物語。かつて運命的な恋に落ち、忽然と姿を消した恋人・麦。数年後、ヒロインの朝子が出会ったのは、麦と瓜二つの顔を持つ誠実な男・亮平だった。東出昌大が一人二役で体現する「自由奔放な非日常」と「穏やかな日常」の間で、朝子の心は静かに、しかし激しく揺れ動く。濱口監督は、東日本大震災という抗えない現実を背景に据えつつ、一人の女性が抱く「狂気」とも取れるほど純粋な欲望を冷徹に、かつ情熱的に描き出す。
- 第71回カンヌ国際映画祭:コンペティション部門出品
- 第42回毎日映画コンクール:日本映画優秀賞
- 第92回キネマ旬報(日本映画):第4位
- 2018年度映画秘宝:第9位
- 2019年度カイエ・デュ・シネマ:第4位
サスペンスとしての恋の始まり
写真展が行われている美術館の静謐な空間で、朝子が東出昌大演じる麦の背中を、何かに憑かれたようにゆっくりと追いかけていく。無言のまま距離を縮め、外へ出た二人は見つめ合い、やがて唐突に唇を重ねる。
その息を呑むようなオープニング・シークエンスだけで、僕はすでにこの映画の底知れぬ引力に完全に心を奪われてしまった。
ここでの人物の動線や視線の交錯は、ロマンチックというよりも、まるで極上のサスペンス映画のような張り詰めた緊張感を孕んでいる。そう、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』(1958年)のような、特異な耽美性を。
映画はここで、恋に落ちるという現象を「個人の意思を超えた、避けがたい運命的な暴力」として描き出す。彼らがキスをする瞬間、背後で爆竹のような花火の音がけたたましく響き渡り、恋の始まりに対して過剰なほどの祝祭性が付与される。
こうしたある種ベタな表現を、照れ隠しなしに真っ向からやってのけることで、観客の感情は一気にスクリーンへと引きずり込まれ、燃え上がってしまうのだ。
だが、その危うい陶酔は長くは続かない。映画の中盤、物語の舞台が大阪から東京へと移り変わる直前に、東日本大震災が発生する。パニックに陥る街で、地震によって芝居小屋の看板が崩れ落ちる。東出がその看板を拾い上げ、元通りに立て直すのではなく、壁に立てかけて「横向き」に直すという何気ない仕草が意図的に挟み込まれる。
これは単なる状況描写ではない。あの巨大な震災を経てしまった世界では、もはや以前の正しい角度(元の日常)に完全に戻ることは絶対にできないという、極めて残酷な寓話的宣言なのだ。
濱口竜介は、圧倒的な恋の高揚感を観客に提示するや否や、すぐさまその背後に横たわっている決定的な「断絶の現実」を容赦なく突きつけてくるのである。
幻影を愛するという残酷な真実
この作品の最も恐ろしく、かつ本質的な核心は、主人公の朝子が「瓜二つの顔を持った二人の男」を愛してしまうという特異な構造にある。
自由奔放でどこか掴みどころのない麦と、誠実で優しいサラリーマンの亮平。名前も性格も社会的立場もまったく異なるが、彼らの顔と声は完全に同じだ。朝子は亮平の温かな存在に触れるたびに、過去に忽然と姿を消した麦の鮮烈な幻影を無意識のうちに呼び起こしてしまう。
ここで描かれているのは、彼女は他者そのものを愛しているのではなく、他者の顔に仮託した自分自身の幻影を愛しているに過ぎないのではないか?という恐ろしい問いだ。
朝子にとって亮平は、間違いなく目の前に実在する人物でありながら、同時にかつて愛した麦の記憶を永遠に召喚し続けるための「スクリーン」や「記号」として機能してしまっている。
言ってしまえば、人が誰かと恋に落ちるということは、相手の複雑な内面を正しく理解し合うことなどではなく、ただ相手の「顔」や「声」、「仕草」といった表層的な要素が、こちらの無意識の欲望のスイッチに触れてしまうという極めて暴力的な出来事なのだ。
瓜二つの人物を好きになってしまうというこの映画の倒錯的な設定は、恋愛という営みが根源的に抱えている欺瞞性を、身も蓋もなく暴き出している。
自由で奔放で、ある日突然消え去ってしまった麦は、一種の幻影であり、震災前の二度と戻らない日常を象徴する存在だ。一方で、真面目で安定的で、朝子との生活を丁寧に築き上げようとする亮平は、震災後の新しい日常。
だが、その亮平の顔が麦と全く同じである以上、朝子は常に、戻らない過去の幻影と、目の前にある現実との狭間で引き裂かれることになる。
これはまさに、震災後の日本人が直面した精神的な状況を見事に映し出している。以前の日常は二度と戻らない。しかし僕たちは、以前と似ているけれど、決定的に違う新しい日常をなんとか生きていくしかない。
そこには修復への希望と同時に、永遠に拭い去ることのできない微かな違和感が常につきまとう。横向きに直された看板の不完全なイメージが、このパラドックスを視覚的に象徴しているのだ。
幻影と現実の共犯関係が導く、濁った川の美しさ
『寝ても覚めても』において描かれる恋愛は、幻影(麦)と現実(亮平)が単純に対立しているわけではない。むしろ、それらは極めて共犯的に深く絡み合っている。
朝子は亮平を愛し、彼との穏やかな生活を営むことで心の奥底で麦の幻影を追い続け、同時に、その強烈な幻影を追い続けるエネルギーによって、なんとか目の前の現実にしがみつこうとしているのだ。
愛の純粋さと、エゴイスティックな欺瞞性が、コインの裏表のように完全に一体化していることを、濱口監督は一切の倫理的ジャッジを交えずに、ただ冷徹にスクリーンに提示する。
だからこそ、この物語は単なるいびつなラブストーリーの枠に収まらず、震災という決定的な断絶を経験した後の、生のあり方をめぐる壮大な寓話へと昇華されている。
過去の幻影に狂おしいほど囚われながらも、結局は泥臭い現実に立ち戻り、そこから生きていかざるを得ない僕たち人間の業の深さ。映画のラスト、二人が見つめる濁った川の激しい流れは、決して美しく澄み切ってはいないが、圧倒的な生命力で前へと進み続けている。
濱口竜介は恋愛という最も個人的な物語を通じて、その不完全で不可避な「生の二重性」を見事にフィルムに焼き付けたのだ。
- 監督/濱口竜介
- 脚本/田中幸子、濱口竜介
- 製作/定井勇二、山本晃久、服部保彦
- 製作総指揮/福嶋更一郎
- 原作/柴崎友香
- 撮影/佐々木靖之
- 音楽/tofubeats
- 編集/山崎梓
- 美術/布部雅人
- 衣装/清水寿美子
- 録音/島津未来介
- 寝ても覚めても(2018年/日本)
- ドライブ・マイ・カー(2021年/日本)
- 悪は存在しない(2024年/日本)
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