パスト ライブス/再会
セリーヌ・ソン

『パスト ライブス/再会』──言葉の届かない愛と、時間の中で再会する魂

『パスト ライブス/再会』(原題:Past Lives/2023年)は、韓国で育ったノラ(グレタ・リー)が幼なじみのヘソン(テオ・ユ)と二十数年ぶりに再会する物語。幼少期にカナダへ移住し、現在はニューヨークで劇作家として暮らす彼女の前に、かつての友が現れる。ノラの夫アーサー(ジョン・マガロ)も加わり、三人は言葉と沈黙を通じて、それぞれの“現在”を見つめ直す。監督はセリーヌ・ソン。自身の体験をもとに脚本も手がけ、A24とCJエンターテインメントが共同製作した。サンダンス映画祭で絶賛され、第96回アカデミー賞で作品賞・脚本賞にノミネートされるなど、静謐な筆致で“人生のもしも”を描いた傑作として高く評価された。

三角形の静寂、あるいは“い縁(インヨン)”の運動

『パスト ライブス/再会』(2023年)は、セリーヌ・ソンが長編デビュー作にしていきなりその才能を世界に知らしめた傑作だ。

セリーヌ・ソンは韓国・ソウルに生まれ、幼少期にカナダへ移住。劇作家としてニューヨークで活動し、代表作『Endlings』で移民としてのアイデンティティを舞台上に可視化した。

私生活では劇作家で脚本家のジャスティン・クリツケスと結婚。彼はルカ・グァダニーノ監督の『チャレンジャーズ』の脚本を手掛けた人物である。

思えばこの『チャレンジャーズ』もまた、三人の男女の関係を軸に、時間と感情のズレを描いた作品だった。夫婦が同じ時期に(作風は全く違うものの)トライアングル・ムービーを作ったことは、映画史的に面白い。

主人公ノラ(グレタ・リー)は、明らかにソング自身の分身だろう。彼女もまた韓国で育ち、カナダを経てニューヨークへ渡り、劇作家として忙しい日々を過ごしている。

そして彼女の前に、かつての幼なじみヘソン(テオ・ユ)が現れ、現在の夫アーサー(ジョン・マガロ)との間に静かな張り詰めた関係が生まれる。三人は対立するのではなく、それぞれが自分の「現在」を守るために、沈黙のなかで均衡を保つ。

“語らない言葉”としての都市

この映画はロケーションの意味付けが精密だ。ニューヨークの街並みは“何かが始まる場所”ではなく、“何かを確かめる場所”として使われる。

象徴的なのが、再会した二人がメリーゴーラウンドをバックに会話する場面。回転木馬は回り続けても前へ進まない。そして回転木馬を覆うガラスは過去を保護しながら、同時に触れさせない。

二人はその手前で言葉を交わし、手の届かない幼い日の記憶と、いま眼前にいる相手との距離を測る。循環する時間と、越えられない境界。その二つが一枚のフレームで静かに共存する。

同じようにショットが明確な意味づけを持つ場面は他にもある。たとえば、ノラが仕事部屋で執筆するシーンでは、大きな窓が彼女と都市のあいだに透明な膜を作る。

反射するガラスには、街の風景とノラ自身の顔が重なり、彼女が「ここにいながら別の場所を生きている」ことを示す。ニューヨークは背景ではなく、彼女の二重のアイデンティティを映す鏡として機能する。

もしくは、フェリーに乗る場面。二人を横から捉えたカメラの背後では、マンハッタンのスカイラインが左から右へ流れていく。時間が未来へ進む方向に流れているのに、二人の視線はその逆、過去を指している。

身体は未来へ運ばれながら、心は過去に取り残される――この水平移動のショットが、メリーゴーラウンドの円環構造を別の形で反復している。

セリーヌ・ソングはこのように、都市の空間や構図を“語らない言葉”として使う。風景は心理を説明するための装飾ではなく、登場人物の意識と同じ速度で動くもうひとつの登場人物だ。

カメラの距離、光の反射、移動の方向。どの要素も、ノラが「いま」と「過去」のあいだで揺れるリズムを静かに可視化している。

韓国語の親密さ、取り残される夫

ノラ、ヘソン、アーサーが一緒に座るバーの場面は、三角関係の倫理を最も正確に表している。ノラとヘソンが韓国語で話しはじめた瞬間、音響的にはにぎやかになる。ところが、空間全体は急速に静まり返る。

アーサーが理解できない言葉が空間を満たすことで、観客は二つの層――“意味が通じる会話”と“意味が通じない親密さ”――を同時に体験する。

言葉は情報を伝える手段であるはずなのに、ここでは通じないことが親密さを作り出しているそれは、同じ言語を話しても決してわかり合えないことがある、という逆説を裏返した瞬間でもある。

この現象は、現代映画がしばしば「多言語的関係」を描くときに採用する文法でもある。たとえば濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』。日本語と手話という異なるモードが、登場人物同士の関係を分断するのではなく、言葉を持たない理解を可能にしていく。

ドライブ・マイ・カー
濱口竜介

演出家・家福(西島秀俊)が演出する『ワーニャ伯父さん』の稽古場では、俳優たちはそれぞれ異なる言語でセリフを発し、同時通訳も行われない。観客は意味を追えないまま、“声のリズム”によって関係の親密さを感じ取る。そこには、“通じなさ”がもたらす新しい信頼関係がある。

同じ構図は、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)にも見られる。異国・東京で、英語も日本語も完全には通じない空間のなか、ボブ(ビル・マーレイ)とシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は、言葉を諦めたときにだけ通じ合う。彼らの親密さは、翻訳されないことによって生まれる。つまり、言語の不完全さがむしろ感情を純化する。

『パスト ライブス』のバーの会話も、この“翻訳不能の親密さ”を継承している。ただしセリーヌ・ソンは、そこに倫理のバランスを加えている。

韓国語で話すノラとヘソンは、アーサーを置き去りにしているように見える。しかし、アーサーは排除されるのではなく、“通訳を待つ人”として場に留まる。

彼の沈黙は「理解できないから疎外される」沈黙ではなく、「理解できないことを理解しようとする」沈黙だ。つまり、言葉が断絶を作るだけでなく、その断絶を引き受ける勇気をも生み出している。

このバランスが崩れると、物語はたちまち不倫劇や悲恋へ傾く。だがセリーヌ・ソンは、「誰が勝者か/敗者か」という図式を拒み、翻訳そのものを愛の形式として描く。

ノラは英語と韓国語を往復しながら、過去と現在、家族と恋人、自己と他者を同時に通訳している。翻訳は裏切りであり、同時に誠実の形でもある。

この「通じないことを抱きしめる」という感覚は、ポン・ジュノの『母なる証明(2009年)のような作品にも、しばしば社会的モチーフとして現れる。

だがセリーヌ・ソンは、民族や国境の物語ではなく、個人の内側に生じる翻訳作業として描いた。ノラにとって韓国語は、過去そのものではなく「過去に話していた自分を呼び起こすスイッチ」であり、英語は「現在を維持するための鎧」。その両方を行き来する彼女の声こそが、映画のもっとも美しい音楽だ。

バーの沈黙は、言葉の終わりではない。それは、翻訳しきれないものをそのまま受け入れるための余白である。そして、その余白こそが三人を結びつける唯一の共通言語なのだ。

右→左=見送る過去/左→右=帰還する現在

ラスト、ノラとヘソンはタクシーを捕まえるために並んで歩く。言葉はしぼみ、やがて止まる。立ち止まり、正面から互いを真っすぐ見つめる。二人が立ち止まり、真正面から視線を交わすショットは、関係の“最終編集点”だ。

カメラは詰めすぎず、引きすぎず、ほぼ等距離の平面で二人を捉える。優位も劣位も与えない画面設計が、勝者/敗者という物語的快楽を拒否し、対等な別れを確定する。

ここで言葉が消えるのは、説明を尽くしたからではなく、説明できないものをそのまま受け取るためである。メリーゴーラウンドの「回転」(反復)と、バーの「翻訳」(共有)を経て、ラストは「歩行」(選択)で閉じられる――映画の三つの運動が直列に接続される。

ヘソンが画面左へ去る(西洋的な読みで“左=先へ/未来へ”)。タクシーという外部の力に身を預けて運ばれていく彼の背は、〈選ばれなかった可能性〉が未来へと解放される瞬間を示す。

一方ノラは、フレーム左から右へ戻る――“現在”へ帰還する動線。ここに「捨てる/残す」の二項対立はない。あるのは、過去に敬意を払いながら現在を再選択するという、倫理的な歩行である。

ノラがアパートの前で泣き崩れるのは、彼を失った悲しみではなく、もうひとつの人生を生きられなかったことへの痛みだ。彼女が弔っているのは「関係」ではなく「可能性」そのもの。涙は、過去を断ち切る儀式ではなく、過去を静かに葬る祈りのように見える。

そしてその涙を受け止めるのが、玄関の前で待っていたアーサーだ。彼は慰めるでも、問いただすでもなく、ただ彼女の背中に手を置く。

この抱擁は、“理解できないことを理解しようとする”という、アーサーという人物の本質を象徴する。彼はバーの場面でも、通訳を待つ沈黙によって、ノラの過去を受け入れた。ラストではその沈黙が、身体の言語(タッチ)へと変換される。言葉を超えた受容――それが夫婦の信頼のかたちとして提示される。

路上と玄関の境界線(しきい)は、この映画全体の主題を凝縮している。ノラが泣くのは“外”(過去と向き合う場所)であり、アーサーに抱かれるのは“内”(現在に属する場所)である。彼女はその境界線上で立ち止まり、二つの時間を同時に抱きしめている。

過去は否定されず、現在は新たに選び直される。ヘソンは未来へ送られ、ノラは現在に帰還し、アーサーはその現在を受け止める。三人の動線が交差するこの瞬間、時間そのものが整序される。

『パスト ライブス/再会』のラストは、感情の爆発ではなく、時間の整理で終わる。右でも左でもなく、中央の玄関という“いま”の場所で、ノラは泣き、抱かれ、静かに息を整える。

映画が最後まで優しくあるのは、誰の時間も否定しないからだ。過去は保存され、未来は解放され、現在は抱きとめられる――その穏やかなバランスこそ、セリーヌ・ソングがこの映画で到達した倫理である。

“三人の勝利”としての別れ

この映画は“不倫か否か”の二者択一に降りない。ノラは自分の物語に誠実であろうとし、アーサーは相手の過去を尊重する伴侶であろうとし、ヘソンは距離をとることで相手の現在を守る恋人であろうとする。

だから、結末に派手な告白も抱擁もいらない。必要なのは、見送り、涙し、歩いて帰ること。それ自体が「いまを選ぶ」決断になっている。

この映画が示すのは、愛の終わりではなく、成熟した関係の始まりである。誰も所有せず、誰も奪わない。それぞれが他者の時間を認め、自分の「いま」を引き受ける――その静かな覚悟こそが、三人すべての勝利なのだ。

DATA
  • 原題/Past Lives
  • 製作年/2023年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/106分
STAFF
CAST