2026/5/23

『旅と日々』(2025)徹底解説|言葉からの逃走と季節の断層

『旅と日々』(2025年/三宅唱)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー

10段階評価
8
GOOD

概要

『旅と日々』(2025年)は、三宅唱が監督・脚本を務めた映画。物語は、一本の劇中映画から幕を開ける。強い日差しが降り注ぐ夏の浜辺で出会った夏男と、影のある女・渚が、台風の接近する大雨の中で海へ泳ぎ出すという不条理で官能的なその映像は、つげ義春の漫画を原作に脚本家の李が執筆したものだった。しかし上映後の質疑応答で、李は自身の才能への絶望を吐露する。季節は巡り冬、スランプに陥り行き場を失った李は、山奥の寂れた温泉街を訪れ、暖房もまともな食事もないおんぼろ宿にたどり着く。そこで出会った宿の主人・べん造は、愛想もやる気も一切ない男。無為な時間を過ごす李だったが、ある夜、べん造に連れ出されて真っ白な雪の原へと足を踏み入れる。凍てつくような寒さと圧倒的な自然の沈黙の中で、李の脳裏に夏の海の情景がフラッシュバックし、創作の苦悩と生きる意味が静かに溶け合っていく。

受賞歴
  • ロカルノ国際映画祭:金豹賞
目次

言葉からの逃走とスケッチ集の重なり

三宅唱監督は、なんだかトンでもない、物凄いステージまでやってきてしまった。『旅と日々』(2025年)を観終えた直後、僕の脳内を支配していたのはそんな純粋な驚きだった。

孤高の漫画家つげ義春の短編群をベースにした本作は、明確な起承転結やハリウッド的なカタルシスを持つ劇映画というよりも、あてのない旅先でふと目に留まった風景や奇妙な人々をパラパラと書き留めた旅のスケッチ集のような、極めて独特な手触りを持っている。

つげ義春コレクション 李さん一家/海辺の叙景(ちくま文庫)
つげ義春

物語の序盤、主人公である脚本家の李(シム・ウンギョン)が劇中で静かに語る「言葉から逃れようとして旅に出る」というナレーション。日々PCのモニターに向かい、テキストの海で溺れそうになりながら原稿をひねり出している僕にとって、この一言は痛いほどリアルに響いた。

意味や論理、そして言葉そのものの重圧から全力で逃走し、ただ見知らぬ空間に自分の肉体を放り投げたいという切実な逃走衝動。文章を生業にしている人間ならずとも、情報過多な現代社会を生きる誰しもが一度は抱えるであろうこの名状しがたい感覚を、三宅唱は映画という総合芸術の力を使って完璧な視覚体験へと昇華させている。

つげ義春の漫画そのものが、劇的なストーリーテリングを拒絶し、日常の裂け目にポッカリと空いた虚無や不条理をスケッチするスタイル。三宅監督はその原作が持つ空気感を損なうことなく、むしろ現代を生きる女性のロードムービーへと変換することで、原作の持つ強度をさらにブーストさせている。

言葉による過剰な説明を削ぎ落とし、ただそこにある風景と人間の身体の動きだけで感情の機微を表現し切る。この映画空間の構築力を見せつけられると、彼がすでに日本の同世代監督の枠を遥かに超えた、とてつもない高みに到達している事実を認めざるを得ない。

夏の官能と冬の牧歌

本作の構造的な面白さと映像的快楽は、物語のトーンと風景が前半と後半で真っ二つに分断されている点にある。前半はつげ作品の代表作『海辺の叙景』をベースにした、まとわりつくような熱気と湿度が支配する夏の物語だ。

強い日差しが照りつける鄙びた海辺の町で、言葉を失いかけた李が出会う謎めいた女、渚(河合優実)。台風が接近し、大雨が降りしきるなかで服を着たまま海へ入り泳ぐふたりの姿は、自然の猛威に対する恐怖よりも、まとわりつく社会の垢を乱暴に洗い流すような強烈な解放感に満ちている。

そこに漂うのは、肌と肌が直接触れ合うようなわかりやすいエロスとは違う、夏の気候そのものが持つ官能的湿度だ。水に濡れた髪、雨だれの音、波のうねり。スクリーンから匂い立つような夏の生々しさが、観客の皮膚を直接撫で回してくる。

そして後半は一転して、『ほんやら洞のべんさん』をベースにした冬の物語へと一気にスライドする。雪の重みで今にも潰れそうなおんぼろ宿と、絶対的な静寂が支配する真っ白な世界。

前半のジリジリとした官能性から急激に温度が下がり、どこかおとぎ話のような牧歌的風景が目の前に広がる。雪に閉ざされた空間での時間は恐ろしく緩やかに流れ、李の心境にも少しずつ静かな変化が訪れる。

夏と冬、官能と牧歌。この極端な場面転換は、観客の視覚と皮膚感覚を強制的にリセットするショック療法として機能している。熱い海で極限まで火照らせた肉体を、極寒の雪原へと容赦なく放り込む。この強烈な温度差がもたらす究極のサウナ的快感こそが、本作の映画的リズムを決定づけているのだ。

分断された二つの季節を、李の身体というひとつのフィルターを通してシームレスに接続してみせた月永雄太のストイックなカメラワークも、間違いなく世界最高峰のレベルにある。

役者の記号性を剥奪する演出マジック

さらに僕を驚かせたのは、スクリーンに次々と登場する実力派役者陣のパブリックイメージや記号性を、完全に剥奪してしまう演出マジックだ。

後半の冬パートに登場する、やる気ゼロの宿主べん造。ぼさぼさの髪で猫背気味に歩き、暖房もまともな食事も提供せず、ただストーブの前で丸くなっているこの男を演じているのが堤真一だと、僕は途中までまったく気がつかなかった。

日本映画界を代表する大スターが放つ特有のオーラをここまで見事に消し去り、ただのうらぶれた田舎のオヤジとして冬の風景に完全に同化させてしまう。役者にここまで徹底した引き算の演技を要求し、風景の一部としてスクリーンに定着させる三宅唱の演出力には、底知れぬ恐ろしさすら感じる。

そして、極めつけは佐野史郎。かつて『ゲンセンカン主人』(1993年)などでつげ義春映像化作品のレジェンド的存在となっている彼が、本作ではまさかの双子設定で登場。この展開はあまりにも意表を突いていて面白すぎて、映画館の暗闇の中で思わず吹き出しそうになってしまった。

ゲンセンカン主人
石井輝男

不条理でシュールなつげ義春特有の世界観を、無理に理屈で説明しようとせず、しれっと双子として画面に配置してしまう卓越したユーモアセンス。悪目立ちすることなく、物語の隙間にクスッとした笑いを忍び込ませるバランス感覚が絶妙だ。

こうした一筋縄ではいかない強烈なキャラクターたちが、主人公である李のスケッチブックに偶然描き込まれた通行人のように、適度な距離感で現れては消えていく。

彼らは互いの人生に深入りすることなく、ただその空間を共有してすれ違うだけだ。そのベタつかない関係性と、すべてを受け入れるシム・ウンギョンの透明な佇まいが、映画全体に極上の風通しの良さをもたらしている。

意味を剥ぎ取った先に見える風景

ロカルノ国際映画祭での金豹賞受賞という歴史的快挙は、決してつげ義春という過去のレジェンドへのノスタルジーに対する評価ではない。

漫画が持つ不条理な世界を現代のロードムービーへと鮮やかに変換し、言葉による説明を極限まで削ぎ落とした先に現れる、純粋な映像と音響のグルーヴへの賞賛だ。

日本映画が長年抱え込んできた説明過多なナラティブから完全に脱却し、映画本来が持つ言葉を超えた身体的体験の豊かさを世界に証明したからこその快挙なのだ。

『旅と日々』は、僕たち観客の脳内にこびりついた言葉の垢を洗い流し、ただそこにある自然の美しさと恐ろしさ、そして人間の滑稽さを再発見させてくれる。

意味や理屈から逃走したその先に、こんなにも豊かで美しい映画空間が広がっているとは想像もしていなかった。三宅唱は間違いなく、現代映画の最前線を軽やかに突破し、誰も見たことのない未知の領域へと足を踏み入れた。

この傑作は、これからの日本映画の行く末を照らす、巨大な特異点として語り継がれていくはずだ。

作品情報
  • 製作年/2025年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/89分
  • ジャンル/ドラマ
スタッフ
キャスト
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