誰しもが憧れるアメリカン・ユートピアに見せかけた、スピルバーグによるディストピア映画
観終わって、気が付いた。この『ターミナル』(2004年)では、トム・ハンクスのキャラクター造形がごっそりと欠落している。
東欧の国クラコウジアからやってきて、カタコトの英語をあやつり、妙に左官工事が得意で、生真面目で人情深い男。ただそれだけだ。正体不明のガイコクジンが、メルティング・ポット(人種のるつぼ)のアメリカをそのまま縮尺したかのようなJFK国際空港に放り出される。
たぶんこの映画において有効な鑑賞法とは、トム・ハンクスに感情移入することではなく、キャラが無色透明で座標軸がゼロにある主人公と一体化し、エアポート・ライフを疑似体験することにある。
この映画の原案は、『ガタカ』(1997年)で監督・脚本、『シモーヌ』(2002年)で監督・脚本、『トゥルーマン・ショー』(1998年)で脚本を手掛けたアンドリュー・ニコル。
彼のテーマは、一貫して「内から外へ越境する意思」であったはず。その姿勢は、やっぱりこの映画でも踏襲されている。「エアポートの外に出る」という直接的なプロットではなく、「アメリカの内から外へ」という比喩として。
そう。JFK国際空港とは、アメリカそのものを指し示すメタファーなのである。
あらゆる人種のターミナル職員たちを押さえつける入国管理の役人フランクは、司法の名のもとに”正義”を施行するアメリカ政府そのもの。そして“許されざる者”としてアメリカに9ケ月間居続けるトムは、移民としての存在だ。
彼がレキシントン・アヴェニューの「ラマダ・イン」に向かい、伝説のジャズ・ミュージシャンにサインをもらうシーンは、明らかに冗長だし付け足し感が強い。
にもかかわらず、スピルバーグはこの無用とも思えるシーンを意図的にインサートした。JFK国際空港=アメリカのメタファーとするなら、彼がゲートを出た瞬間に、この映画の真の狙いがあるはず。このシーンに、アメリカへの希望を託したに違いないのだ。
しかし、ハンクスはものの数時間で用事をすますと、ラストシーンで「国に帰る」とつぶやいて空港へUターン。誰しもが憧れるアメリカン・ユートピアを描いているように見せかけて、実はディストピア映画として帰着させてしまう計算だったに違いない、と僕は勝手に確信するものであります。
違いますか。たぶん違うだろうな。
- 原題/The Terminal
- 製作年/2004年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/129分
- 監督/スティーヴン・スピルバーグ
- 製作/スティーヴン・スピルバーグ、ウォルター・F・パークス、ローリー・マクドナルド
- 原案/アンドリュー・ニコル、サーシャ・ガヴァシ
- 脚本/サーシャ・ガバシ、ジェフ・ナサンソン
- 撮影/ヤヌス・カミンスキー
- 美術/アレックス・マクドウェル
- 音楽/ジョン・ウィリアムス
- 衣装/メアリー・ゾフレス、クリスティーン・ワダ
- トム・ハンクス
- キャサリン・ゼダ=ジョーンズ
- スタンリー・トゥッチ
- チー・マクブライド
- ディエゴ・ルナ
- クマール・パラーナ
- ゾーイ・サルダナ
- エディ・ジョーンズ
- マイケル・ヌーリー
- ジュード・チコレッラ
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