『プラダを着た悪魔』(2026年/デヴィッド・フランケル)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『プラダを着た悪魔2』(原題:The Devil Wears Prada 2/2026年)は、世界的ヒットを記録した前作から約20年の時を経て製作されたコメディ・ドラマ。伝統的な出版ビジネスの衰退により、かつての絶対的な影響力を失いつつある「ランウェイ」誌の編集長ミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)と、今や巨大ラグジュアリー企業の重役へと登り詰めた元アシスタントのエミリー・チャールトン(エミリー・ブラント)を中心に、新たな時代のファッション業界における権力闘争を描き出す。前作を手掛けたデヴィッド・フランケル監督と脚本のアライン・ブロッシュ・マッケンナが再びタッグを組み、変化を余儀なくされるキャリアウーマンたちの葛藤を鮮やかに映し出している。
エグい資本主義ムービー
『プラダを着た悪魔2』(2026年)を観終えて、劇場を出た僕の頭の中に渦巻いていたのは、ファッションへの憧れでも仕事へのモチベーションでもなく、ただただ「資本主義ってエグいな」という身も蓋もない感想だった。
2006年に公開された前作『プラダを着た悪魔』は、鬼編集長ミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)の下で奮闘するアンドレア・サックス(アン・ハサウェイ)の成長を描いた物語だった。
だが僕の目には、マフィア映画や企業スリラーと完全に同じような、「裏社会でののし上がりと魂の喪失」を描いた暗黒物語にしか見えなかった。その構造は、ほとんどフランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972年)。
だってこれ、カタギの青年マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)がファミリーのドンへと登り詰め、人間としての倫理と愛する者を失っていく悲劇と同じじゃんか。そして、デヴィッド・フランケル監督が20年の時を経て世に送り出した待望の続編『プラダを着た悪魔2』(2026年)も、より骨太なマフィア映画であり、エグい資本主義ムービー。
自分が本当に正しいと信じることをやろうとするとき、結局のところ金(資本)がないと何もできない。一見するとハイブランドに彩られた極上のエンターテインメントに見えつつも、その内実はものすごく冷徹に現代の現実を照射した映画なのである。
セルリアン・ブルーの終焉と、階層社会のリアル
前作を象徴する名シーンに、ミランダがアンディに対して「セルリアン・ブルーのセーター」を例に挙げ、ファッション業界の構造を説き伏せる場面がある。
あれはトップデザイナーが作り出したトレンドがいかにして大衆へと降りていき、巨大な経済効果と雇用を生み出しているかという、見事なまでのトップダウン型経済の講釈だった。あの時代の世界は間違いなくトップダウンで回っており、ミランダこそがその権威を象徴する存在だったのだ。
しかし2026年現在、トレンドを決めるのは「ランウェイ」の編集長ではなく、TikTokやInstagramのアルゴリズムにとって代わられてしまっている。
世界はアルゴリズム型の経済へと移行し、ミランダのような絶対的権威はすっかり時代のスピードから取り残されつつある。本作は、旧世代的になってしまった彼女が、どうやってこの新しい時代に対応し、自らの居場所を再定義していくべきなのかという生存戦略の物語なのだ。
登場人物たちの立ち位置も劇的に変化した。アンディは「ヴァンガード」というメディアでジャーナリストとして賞を受賞するほど活躍したのち、人員整理の憂き目に遭いながらも「ランウェイ」誌の特集エディターとしてバリバリ働いている。かつての先輩エミリー・チャールトン(エミリー・ブラント)はディオールに転職し、確固たる地位を築いた。
イエローキャブに飛び乗って慌ただしくニューヨークを駆け回っていたアンディは、今やブルックリンやクイーンズではなく、めちゃめちゃ家賃が高そうなマンハッタンのアパートメントに暮らし、イケメン建築家とのロマンスまで楽しんでいる。
前作でハイブランドに身を包んだ瞬間に「ミランダ・ファミリー」というマフィア組織の一員になったのだとすれば、今回の彼女は、資本主義という階層社会のシステムにおいて、もう一つ上のランクへと明確にジャンプアップしている。
そんな激変する波の中で、僕が一番好きなキャラクターであるナイジェル(スタンリー・トゥッチ)だけは変わっていない。皆が時代に合わせて変容していく中、彼だけはずっと同じスタイルと美意識でそこに居続ける。だからこそ、本作で彼が発する言葉には、流行り廃りを超えた普遍的な重みが宿っているのだ。
マフィア的権力闘争と『最後の晩餐』
実は映画の中盤まで、僕は最後にはミランダが権力の座をナイジェルに移譲して、美しく引退するのではないかと思っていた。劇中にも「引き際が難しい」というようなセリフがあったし、それがハリウッド映画の自然な流れに思えたからだ。
しかし、最後の最後までミランダはその権力から離れようとしない。一度権力を握った者は、しがみついてでも最後までそのポジションを維持しようとする。ドン・コルレオーネのごとくファミリーの頂点に君臨し続ける、その泥臭い執念が、一作目よりもマフィア映画感をマシマシにしている最大の要因だ。
それを象徴するのが、終盤のディナーシーン。テック系億万長者のベンジー(ジャスティン・セロー)とミランダが直接対決する息を呑むような場面。その舞台として選ばれたのは、イタリア・ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院であり、彼らの背後にはレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」が飾られている。
「最後の晩餐」とは言うまでもなく、キリストが「この中に私を裏切る者がいる」と予告した緊迫の瞬間を描いた宗教画だ。この映画もまさにその直前、ミランダを助けるふりをしていたエミリーが、実は裏で「ランウェイ」を乗っ取ろうと画策していたという衝撃の事実が発覚する。
かつての子分が隙を突いてファミリー(組織)を簒奪しようとするという、めちゃめちゃマフィア映画な王道展開の連続に、僕は劇場で思わず笑ってしまったほどだ。
巨大資本の暴力と、アナログが導く人間回帰
ベンジーのようなテック系ビリオネアに蹂躙され、メディアの存続すら危ぶまれる時代。この絶体絶命のピンチを切り抜けるためにアンディがとった手段は、ルーシー・リュー演じるサシャというシリコンバレーの大富豪に、親会社ごと買い取ってもらうという荒業だった。
僕にはこれが、現代社会の構造をものすごく残酷に、かつ象徴的に表しているように思えてならない。つまり、超巨大な資本主義の暴力に対抗するためには、正論やジャーナリズムの矜持ではなく、別の超巨大資本をぶつけるしか道はないということだ。
前述の通りアンディは、ジャーナリストとして高く評価されていたにもかかわらず、人員整理のあおりでアッサリとクビを切られている。だから彼女にとって、自分を正当に評価してくれる良き上司よりも、実際に金を出して権力を振るえるビリオネアの存在こそが生存の絶対条件なのだ。
ファッションとジャーナリズムの対立といった古き良きテーマは完全に過去のものとなり、すべてがテック系資本に飲み込まれていく。この身も蓋もないリアルな構造を、極上のエンタメに落とし込んだアライン・ブロッシュ・マッケンナの脚本は、本当に凄まじい。
最後に余談ですが、かつてはバチバチのライバルだったエミリーとアンディがすっかり打ち解け、炭水化物をシェアしながら「これならカロリーゼロよね」なんてセリフをのたまうのは、サンドウィッチマン伊達の“カロリーゼロ理論”オマージュですか。マジでビックリしたんですけど。
- 監督/デヴィッド・フランケル
- 脚本/アライン・ブロッシュ・マッケンナ
- 製作/ウェンディ・フィネルマン
- 製作総指揮/カレン・ローゼンフェルト、マイケル・ベダーマン、アライン・ブロッシュ・マッケンナ
- 原作/ローレン・ワイズバーガー
- 撮影/フロリアン・バルハウス
- 音楽/セオドア・シャピロ
- 編集/アンドリュー・マーカス
- 美術/ジェス・ゴンコール
- 衣装/モリー・ロジャース
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