画面を覆う暗いペシミズムと、オーソン・ウェルズの規格外な存在感
たとえば『市民ケーン』(1941年)や『天上桟敷の人々』(1945年)なんかもそうなのだが、いろんなところで名作だ傑作だと絶賛され、あまたの映画ベストテンにランキングされ、気づけば観る前から知識を植え付けられて、「観てもいないのに観たような気になっている」という映画は確かに存在するのである(別に僕の脳が老化したという話ではない)。
『第三の男』(1949年)はまさにその代表例だろう。僕はこれを高校生のときにはじめて観たのだけれど、アントン・カラスの全編を彩るツィター演奏がイカすだとか、「スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらしただろう?…鳩時計さ」という名台詞があるだとか、アリダ・ヴァリがジョゼフ・コットンを完全シカトするラストシーンが超クールだとか、すでに観る前から予備知識で知りすぎるほど知ってしまっていた。
にもかかわらず、『第三の男』は僕の過剰な期待をしっかりと受け止めるだけの完成度と重量感を持ち合わせていた。その存在の壮大さたるや、まるで親父の大きな背中のようである。
何よりまず、この映画にはスキがない。大きなバイアスがかかったかのような「斜め構図」を多用し、過酷なまでに引き締められた映像はソリッドでタイト。
綿密に設計された脚本は少しの緩みもなく、緩急の効いたテンポで物語は綴られていく。『第三の男』は、フィギアスケートのごとく映画を減点法で採点する人がいたとしても、確実に高得点が見込めるような作品なのだ。
舞台が第二次世界大戦が終わって間もないウィーンというのも、退廃的なデカダンスとペシミズムを映画に付与していて、ピカレスク・ロマン風味。
ウィーンといえば、かつてロココ調の華麗な建造物が立ち並んでいた帝都であるが、ドイツがウィーンから撤退してアメリカやイギリスによって分割統治されるようになると、闇商人がうごめく魔都へと変貌してしまう。
敗戦という負の記憶が刻まれた街で、アメリカから来たジョゼフ・コットンは“法の番人”として、“闇の帝王”オーソン・ウェルズと対決するのである。
社会からはみだしてしまった男ハリー・ライムを、映画界という枠からはみだしてしまったオーソン・ウェルズが演じたからこそ、この映画には単なる優等生的な映画ではない手触りが感じられる。
画面を覆う暗いペシミズムと、オーソン・ウェルズの規格外な存在感が、ケミストリーを起こしたのだ。
- 原題/The Thirdman
- 製作年/1949年
- 製作国/イギリス
- 上映時間/105分
- 監督/キャロル・リード
- 製作/キャロル・リード、デヴィッド・O・セルズニック、アレクサンダー・コルダ
- 原作/グラハム・グリーン
- 脚本/グラハム・グリーン
- 撮影/ロバート・クラスカー
- 音楽/アントン・カラス
- 美術/ヴィンセント・コルダ
- 録音/ジョン・コックス
- ジョゼフ・コットン
- アリダ・ヴァリ
- オーソン・ウェルズ
- トレヴァー・ハワード
- バーナード・リー
- パウル・ヘルビガー
- エルンスト・ドイッ
- ジークフリート・ブロイアー
- エリッヒ・ポント
- ウィルフリッド・ハイド・ホワイト
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