『第三の男』(1949年/キャロル・リード)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『第三の男』(原題:The Third Man/1949年)は、キャロル・リード監督がグレアム・グリーンのオリジナル脚本を映画化した、フィルム・ノワールの金字塔。第二次大戦終結直後の荒廃したウィーンを舞台に、親友ハリー・ライムの不可解な死の真相を追うアメリカの三流作家が、冷酷な闇取引と驚愕の真実に直面していく様を、不安を煽る完璧な斜め構図とアントン・カラスが奏でる哀愁漂うチターの旋律と共に描き出す。
- 第23回アカデミー賞:撮影賞(白黒)
- 第3回カンヌ国際映画祭:グランプリ
- 1950年ニューヨーク映画批評家協会賞:監督賞
- 1950年ナショナル・ボード・オブ・レビュー:作品賞トップ10、監督賞
- 第26回キネマ旬報(外国映画):第1位
- 1951年度カイエ・デュ・シネマ:第8位
完璧なる「斜め構図」の暴力
『市民ケーン』(1941年)だの『天井桟敷の人々』(1945年)だの、映画史に燦然と輝く名作たち。あまたの映画ベストテンで絶賛され、知識ばかりが先行し、観てもいないのにすでに観たような気になってしまう。そんなことないですか?僕はそんなことばかりです。
僕が高校生のときにはじめて対峙した『第三の男』(1949年)も、まさにその代表格。アントン・カラスの全編を彩るツィター演奏がイカすだとか、「鳩時計」の超有名な名台詞があるだとか、アリダ・ヴァリがジョゼフ・コットンを完全シカトするラストシーンがクールだとか、予備知識で頭がパンパン状態だった。
にもかかわらず、本作は僕の過剰な期待とバイアスを、信じられないほどの完成度と重量感でガッチリと受け止めてみせた。その揺るぎない存在の壮大さたるや、まるで親父の広くて大きな背中のようである!
何よりまず、この映画には1ミリのスキもない。キャロル・リード監督が執拗なまでに多用した斜め構図(ダッチ・アングル)が、観客の平衡感覚を容赦なく狂わせる。
水平を徹底的に拒絶し、世界が傾き、狂っていることを視覚的に叩きつけるこの異常なカメラワークは、巨匠ウィリアム・ワイラーから「お前のカメラは壊れているのか、水準器を送ろうか」と皮肉の手紙を送られたほどの徹底ぶり。
光と影のコントラストを極限まで強調した撮影監督ロバート・クラスカーのカメラは、フィルム・ノワールの歴史において疑いようのない最高到達点を示している。
濡れた石畳に反射する街灯の冷たい光、巨大な男の影が石造りの壁に不気味に投影されるシークエンス。過酷なまでに引き締められたモノクロームの映像は、どこまでもソリッドでタイトである。
そこに名手グレアム・グリーンの緻密に設計された脚本が加わり、少しの緩みもなく、緩急の効いたテンポで物語が疾走していく。もしフィギュアスケートの減点法のごとく映画を採点する嫌味な批評家がいたとしても、確実に歴史的な高得点を叩き出す、まさにパーフェクトなサスペンス映画なのだ。
敗戦都市ウィーンのペシミズムと、ツィターの旋律
舞台が第二次世界大戦終結から間もないウィーンという設定も、退廃的デカダンスと深いペシミズムを付与している。
かつてハプスブルク家の栄華を誇り、ロココ調の華麗な建造物が立ち並んでいた誇り高き音楽の都。しかし、ナチス・ドイツが敗退し、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四カ国によって分割統治されるようになったウィーンは、粗悪な水めたペニシリンを売りさばく闇商人がうごめく、瓦礫にまみれたピカレスク・ロマン風味の魔都へと無惨に変貌してしまったのだ。
敗戦という負の記憶と貧困が深く刻まれたこの街で、アメリカからやって来た三流の西部劇作家ホリー・マーティンス(ジョゼフ・コットン)は、法の番人としての西側諸国の甘い倫理を背負いながら、親友ハリーの死の謎を追うことになる。
この絶望的に冷え切った冷戦初期の都市空間に、信じられないほどの叙情と哀愁を吹き込んだのが、アントン・カラスによるツィターの旋律である。
リード監督がウィーンのワイン酒場で偶然耳にしたというこの素朴な民族楽器の音色は、オーケストラの壮大なスコアを一切排し、全編を一本の細い糸のように貫いていく。
チャカチャカという軽快でありながらどこか哀しみを帯びたその響きは、瓦礫の街を生き抜く人々のしたたかさと、二度と取り戻せない過去への郷愁を見事に体現している。
劇伴にオーケストラを使わないというリードの大胆すぎる決断は、結果的に映画音楽の歴史を塗り替える大成功を収め、テーマ曲は世界中で空前の大ヒットを記録した。
現実の政治状況とフィクションが奇跡的に交差するウィーンのロケーション撮影は、スタジオセットでは絶対に作り出せない生々しい空気を放っている。
下水道を逃げ惑う緊迫のクライマックス・シーン。響き渡る足音と、反響する怒声。四カ国の軍警察が入り乱れるその地下迷宮は、まさに分断されたヨーロッパの暗部そのものだ。
冷酷な現実を前に、アメリカから来た純朴な主人公の正義感はあまりにも無力であり、ウィーンの深い闇にズルズルと飲み込まれていくのである。
オーソン・ウェルズという劇薬
そして、この映画の絶対的な心臓部であり、すべての常識を破壊する猛毒こそが、“闇の帝王”ハリー・ライムを演じたオーソン・ウェルズの存在感だ。
映画が始まってから1時間以上も顔を見せず、暗がりのドアの隙間から猫の鳴き声とともにニヤリと笑って登場するあのワンカットの破壊力。映画史に残る最も美しく、最も邪悪な登場シーンであると断言しよう。
当時、『市民ケーン』の特大の成功から一転し、ハリウッドのスタジオシステムから完全に干され、社会からも映画界という枠からも激しく「はみだしてしまった男」ウェルズが演じたからこそ、ハリー・ライムというキャラクターには、単なる優等生的な悪役にはない、強烈で生々しい手触りが感じられるのだ。
プラーター遊園地の観覧車の中で、ハリーが親友ホリーを見下ろしながら放つあの伝説の台詞。
イタリアのボルジア家支配の30年間は、恐怖と流血の時代だったが、ミケランジェロやダ・ヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらしただろう?……鳩時計さ
ウェルズ自身がアドリブで書き加えたと言われる、この冷酷無比なニヒリズムの極致!金のために病人を死に追いやる極悪人でありながら、なぜか我々観客は彼の圧倒的な知性とカリスマ性に魅了されてしまう。画面を重く覆う暗いペシミズムと、オーソン・ウェルズの規格外なエゴイズムと存在感が、奇跡のケミストリーを起こしている。
だからこそ、あの映画史に永遠に刻まれる伝説のラストシーンが胸を激しく打つ。枯葉が舞い散る中央墓地の長い一本道。親友を売り、ハリーを死に追いやったホリーを、ハリーの恋人アンナ(アリダ・ヴァリ)が一切の感情を排した冷たい表情で歩み去っていく。
甘ったるいハリウッド的ハッピーエンドを全力で拒絶し、女の深い情念と男の浅はかな正義感を残酷なまでに対比させたこの結末。リード監督がプロデューサーの猛反対を押し切ってまで貫いたこの完璧な幕引きがあるからこそ、本作は不滅の輝きを放っている。
正義は敗北し、悪党の影だけが永遠に愛される。これぞまさしく、映画というメディアが到達した最高傑作の証明なのだ!
参考文献・出典
- 監督/キャロル・リード
- 脚本/グレアム・グリーン
- 撮影/ロバート・クラスカー
- 音楽/アントン・カラス
- 編集/オズワルド・ハーフェンリクター
- 美術/ヴィンセント・コルダ
- 録音/ジョン・コックス
![第三の男/キャロル・リード[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81ry5yvkHL._AC_SL1500_-e1759040241325.jpg)
![H天井桟敷の人々/マルセル・カルネ[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81XN6H5dnGL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1768494769490.webp)