『ブンミおじさんの森』(2010)
映画考察・解説・レビュー
『ブンミおじさんの森』(原題:Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives/2010年)は、腎臓病に苦しむ男ブンミが死を迎える数日間を描く物語。タイ東北部の森に建つ家で、亡き妻や“猿の精”となった息子が姿を現し、過去の生や来世の幻影が入り混じる中、彼は静かに自身の輪廻を見つめていく。第63回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、タイ映画史上初の快挙として世界の映画史に名を刻んだ。宗教、記憶、再生が交錯するアピチャッポン・ウィーラセタクンの代表作。
殺された共産主義者たち
ティム・バートンは、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『ブンミおじさんの森』(2010年)についてこう語っている。
この映画は、私が見たこともないファンタジーであり、美しく奇妙な夢のようだった
2010年カンヌ国際映画祭で、審査委員長だったバートンを筆頭に、世界の映画人を唖然とさせ、そして熱狂の渦に巻き込んでパルムドールをさらったのが、本作だ。
一見すると、腎臓病を患った老人が、死んだ妻の幽霊や、猿の姿になった行方不明の息子と森で最後の時を過ごす……という、静謐なスピリチュアル映画に見えるかもしれない。だが、騙されてはいけない。この映画は単なる癒やしや、東洋的神秘のカタログなんかじゃない。
これは、タイという国が歴史の闇に葬り去った政治的虐殺の記憶を暴き出し、同時に、フィルムからデジタルへと移行する時代における「映画というメディアそのものの臨終」を看取る、極めてラディカルで実験的な、映像の輪廻転生ドキュメンタリーなのだ。
まず、この映画の最も深い地層にある「血の匂い」を嗅ぎ取らなければならない。 主人公ブンミは、自らの死期を悟り、こう告白する。「私が病気になったのは、カルマ(業)のせいだ。私は多くの共産主義者を殺したから……」。
この台詞は、タイ現代史における最大のトラウマ、共産党狩りへの直接的な言及だ。本作の舞台となったタイ東北部の村ナブアは、1960年代から80年代にかけて、タイ政府軍と共産党ゲリラとの激しい戦闘が行われた最前線だった。当時、政府は共産主義の脅威を口実に、多くの農民や学生を不当に拘束し、拷問し、虐殺した。
ブンミおじさんは、その殺した側の人間、つまり政府軍や自警団の一員だったことが示唆されている。彼の体内で腐敗していく腎臓は、異分子を排除し、暴力で統合を図ってきた「タイ国家そのものの病巣」のメタファー。彼が毎晩行う透析作業は、国家が過去の罪を洗い流そうとする(しかし決して完治しない)不毛な儀式のようにさえ見える。
アピチャッポン監督は、この映画の前段階として『プリミティブ』というアートプロジェクトを行っている。そこで彼はナブアの若者たちと交流し、埋もれた虐殺の記憶を掘り起こした。
つまり『ブンミおじさんの森』における「森」とは、美しい自然である以上に、殺された者たちの死体が埋まり、その魂が彷徨う、「巨大な政治的アーカイブ」なのである。
夜の食卓に現れる幽霊たちは、ブンミの家族であると同時に、歴史の闇から「私たちを忘れるな」と訴えかける、名もなき死者たちの総体なのだろう。
ウナギ・マンガ・着ぐるみ──B級センスという“異界への入口”
次に注目すべきは、この映画が纏っている奇妙な安っぽさだ。 高尚なアート映画だと思って身構えていると、観客は不意打ちを食らう。
突然現れる、真っ黒な毛むくじゃらの生物。目が赤く光る、猿の精霊。どう見ても特撮ヒーロー番組の怪人か、ドン・キホーテで売っているパーティーグッズの着ぐるみにしか見えない。明らかにアピチャッポンは、チープさを選んでいる。
それは、彼が子供の頃に夢中になった、タイのテレビドラマやB級ホラー映画、そして日本の漫画(『ゲゲゲの鬼太郎』など)へのオマージュだから。
かつてのタイの映画やドラマは、低予算で粗削りで、しかし強烈なエネルギーに満ちていた。監督にとっての霊的な原風景は、高尚な宗教画ではなく、こうした俗悪で懐かしいフィクションの中にこそ宿っている。
そして、映画史に残る怪場面、女王とウナギの情事。顔の老いに絶望した王女が、湖に入り、男根的な象徴である巨大なナマズ(あるいはウナギ)と交わる。
美しい宝石と、ヌルヌルとした魚の肌。高貴さと卑俗さ。このシーンは、タイの「民話」や「昼メロ」のパロディのような様式を取りながら、観客の深層心理にあるエロスとタナトスを強烈に刺激する。
王女は人間の美という限界に絶望し、種を超えた交合によって異形の者へと生まれ変わろうとする。これはブンミの語る「前世」の記憶の断片であると同時に、物語の整合性を破壊し、観客を論理の世界から感覚の密林へと引きずり込むための、アピチャッポン流のショック療法だ。
笑ってしまうほどチープなのに、なぜか涙が出るほど美しい。このアンビバレンスこそが、本作の魔術である。
映画というメディアの「走馬灯」と「死」
アピチャッポン監督はインタビューで、「この映画は、異なる映画スタイルのオムニバスとして構成した」と語っている。実は本作は6つのリールから成り立っており、それぞれが異なるジャンルの文法で撮られているのだ。
1.自然ドキュメンタリー風: 冒頭の水牛が森を彷徨うシーン
2.古典的タイ・ドラマ風: 食卓での幽霊との対話(固定カメラ、長い間)
3.ファンタジー/民話風: 王女とウナギのシーン
4.戦争アクション風: 将来の夢(未来の記憶)として語られる写真のモンタージュ
つまり、ブンミおじさんが自分の前世(動物だったり、王女だったり)を回想するように、この映画自体もまた、「かつて自分はいろいろな映画だった」と、映画史の記憶を回想しているのだ。これはブンミという個人の死を描くと同時に、「フィルム映画というメディアの死」を描いた作品でもある。
本作の大部分は、スーパー16mmフィルムで撮影された。ザラついた粒子、深い闇の黒、豊かな色彩。そこには物理的な実体があり、だからこそ「幽霊」が映る余地がある。 しかし、ブンミが洞窟(おそらく、プラトンの洞窟の比喩だろう)に入り、死を迎えた後、世界は一変する。
ラストシーン、ブンミの葬儀を終えた義妹ジェンと僧侶のトンが、ホテルの部屋でテレビを見ている。このシーンだけ、実はデジタルカメラで撮影されている。映像はクリアで、明るく、しかしどこか平面的で深みがない。そこにはもう、森の湿気も、幽霊の気配もない。
そして起こる、あの分裂現象。シャワーを浴びに行こうとするジェンとトン。しかし、ベッドにはまだ二人が座ったままだ。まるでバグったかのようなこの描写は、霊的な意味(魂の抜け殻)であると同時に、現代人の身体性の喪失を表している。
森(過去・アナログ・共同体)から、都市(現在・デジタル・個)への移行。ブンミ=フィルム映画が死に、私たちは清潔で明るいけれど、どこか空虚なデジタルの世界に取り残された。
カラオケバーで流れるポップソング。極彩色のネオン。それは「新しい時代」の到来を告げているが、アピチャッポンの眼差しは、そこにかすかな哀しみを宿している。
『ブンミおじさんの森』は、タイという国の血塗られた土壌から生えた、奇妙で美しいキノコのような映画だ。 食べれば幻覚を見る。過去の虐殺の記憶、B級映画の懐かしさ、そして映画というメディアが死にゆく瞬間の走馬灯。
虫の音のボリュームに鼓膜を震わせ、暗闇に目を凝らし、時間の感覚が溶けていくのを肌で感じよう。この映画体験そのものが、一種の瞑想であり、死と再生の疑似体験なのだから。
- 監督/アピチャッポン・ウィーラセタクン
- 脚本/アピチャッポン・ウィーラセタクン
- 製作/アピチャッポン・ウィーラセタクン、サイモン・フィールド、キース・グリフィス、シャルル・ド・モー
- 撮影/サヨムプー・ムックディプローム
- 編集/リー・チャータメーティクン
- ブンミおじさんの森(2010年/タイ)
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