『バージニア・ウルフなんかこわくない』──マイク・ニコルズが暴いた“愛という劇薬”
『バージニア・ウルフなんかこわくない』(原題:Who’s Afraid of Virginia Woolf?/1966年)は、エドワード・アルビーの同名戯曲を原作に、マイク・ニコルズが初めて映画監督としてメガホンを取った心理劇。主演はエリザベス・テイラーとリチャード・バートンで、二人は実生活でも夫婦だった。脚本はアーネスト・レーマン、撮影はハスケル・ウェクスラー。第39回アカデミー賞で13部門にノミネートされ、テイラーが主演女優賞を受賞。モノクロ作品としては異例の高評価を得た。
虚構の中の真実──演じ続ける夫婦という舞台
『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)は、同名舞台劇をマイク・ニコルズが映画化した心理劇だ。
ニューイングランドの大学町、深夜。ジョージ(リチャード・バートン)とマーサ(エリザベス・テイラー)夫妻は、パーティ帰りの勢いで若い教員夫妻を自宅に招き入れる。酔い、罵り、挑発し、嘲る。彼らの会話はすでに言葉ではなく、刃の応酬である。
だが、この戦いは単なる夫婦喧嘩ではない。そこに投影されているのは、戦後アメリカが築いた“知的中産階級”という虚構そのもの。成功、教養、安定、理想的家族──そうした価値の殻が音を立てて崩れていく。
ジョージとマーサは互いを愛してなどいない。むしろ、愛を“演じる”ことでしか共存できないのだ。彼らにとって愛とは、残酷なルールに支配されたゲームであり、そのルールを破る瞬間こそが、唯一の真実である。
ジョージの皮肉とマーサの毒舌は、現実を保つための擬装であり、また破壊の快楽でもある。
舞台劇の残響──閉じた空間が暴く人間の業
この作品は、劇作家エドワード・アルビーによる戯曲として1962年に初演された。舞台版は、その過激な言葉と心理描写によって当時のブロードウェイを震撼させ、ピューリッツァー賞を逸しながらも演劇史に残る衝撃作として語り継がれている。
アルビーは「愛と真実の間に横たわる欺瞞」を描き、アメリカ演劇を“上品な娯楽”から“残酷な実験”へと変貌させた。観客は、ジョージとマーサの罵倒を聞きながら、笑いと不安のあいだに取り残される。
観ることが痛みであり、笑うことが罪であるという緊張。この構造的残酷さこそが、『バージニア・ウルフなんかこわくない』を単なる家庭劇から人間存在の実験室へと押し上げた。
この作品が監督デビュー作となるマイク・ニコルズにとって、まさにその“密室の恐怖”を銀幕に閉じ込めることが、最大の挑戦。 ニコルズは“舞台の閉鎖性”をそのまま再現することで、観客を逃げ場のない心理空間に閉じ込めた。
広角レンズによる歪み、執拗なクローズアップ、暗闇に沈むライティング。すべてが観客を人間関係の深淵へと引きずり込む。舞台の“言葉の暴力”を、映画の“視覚的暴力”に変換したのである。
結果としてこの作品は、アメリカ映画史において例外的な“会話劇の極北”として刻まれた。初監督作にしてアカデミー賞13部門ノミネートという異例の評価は、単なる演出の巧さではなく、映画というメディアの限界を超えた“心理の演出”に対する賛辞だった。
バージニア・ウルフという亡霊──知性が孕む狂気
タイトルの“バージニア・ウルフ”とは、単なる文学的引用ではない。彼女はこの映画における“知性の亡霊”であり、マーサの中に潜む自意識の象徴だ。
マーサが酔って「Who’s afraid of Virginia Woolf?」と歌うとき、それは自己への問いとして響く。誰が現実の自分を恐れているのか──この歌は、狂気と知性が紙一重であることを暴く呪文のよう。
マイク・ニコルズは、この亡霊をアメリカ的教養の象徴として召喚し、それを自壊させていく。知識、文化、倫理、それらを信仰する中産階級がいかに空虚であるかを示すために。ジョージもマーサも、ウルフを“理解する側”ではなく、“呪われる側”にいる。
彼らは教養によって救われるのではなく、教養によって追い詰められていくのだ。
幻想の子──フィクションとしての愛の死
終盤、ジョージとマーサの口から“息子の死”が語られる。だがその息子は存在しない。彼らが創り出した虚構の産物であり、唯一共有できる幻想だった。つまり、彼らの愛は現実ではなく、維持のための物語にすぎなかったのだ。
この“架空の子”の設定は、アルビーの戯曲的構造を超えて、心理的メタファーとして機能している。愛が崩壊する瞬間、彼らは初めて真実に触れる。マーサが最後に「I am, George… I am」と呟くその場面は、絶望ではなく、真実への降伏としての救済だ。
愛の終焉は、自己欺瞞からの覚醒と表裏一体。マイク・ニコルズが後年『卒業』や『カーネル・ナレッジ』で描く“自我の再構築”の萌芽は、すでにこのラストに宿っている。
『バージニア・ウルフなんかこわくない』は、半世紀以上を経てもなお多くの観客を惹きつけてやまない。その理由は、この作品が“愛”を美化するのではなく、“愛”を通して人間の最も醜い部分を暴くからだ。
観客はジョージとマーサの罵り合いを見ながら、笑いと恐怖のあいだを往還する。そこにあるのは、誰もが抱く「理解されたい」「支配したい」「壊したい」という欲望の鏡像。
ニコルズは観客に逃げ場を与えない。彼はこの作品を“観客自身の地獄”として設計した。だからこそ、この映画は観る者の心を捉え続ける。真実とは痛みであり、愛とはその痛みを共有するための最も残酷な装置なのだ。
- 原題/Who’s Afraid of Virginia Woolf?
- 製作年/1966年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/131分
- 監督/マイク・ニコルズ
- 脚本/アーネスト・レーマン
- 製作/アーネスト・レーマン
- 音楽/アレックス・ノース
- 撮影/ハスケル・ウェクスラー
- 編集/サム・オスティーン









