『野獣死すべし』(1980年/村川透)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『野獣死すべし』(1980年)は、村川透が監督を務め、名優・松田優作が主演したハードボイルド・アクション映画。大藪春彦の同名小説を原作に、1970年代から80年代の日本映画界を牽引した俊英たちが再構築した一作。世界各地の血と硝煙が渦巻く凄惨な戦場を通信社のカメラマンとして渡り歩いてきた過去を持つ男・伊達邦彦。帰国後に退社した彼は、現在でこそ翻訳家として静かに身を隠すように暮らしているが、その内面には戦地で目覚めた冷徹無比な「野獣の血」が脈々と流れていた。村川透のスタイリッシュな演出と、戦場を知る者特有の虚無感が画面全域を支配し、東京の街角に戦場のような静寂と暴力の予感を持ち込んだその映像感覚は、今なお色褪せない強度を誇る。
- 第2回ヨコハマ映画祭:主演男優賞
ファインダー越しの死神
角川シネマ有楽町で、超久々に『野獣死すべし』(1980年)をキメてきた。ちょっと筆舌に尽くし難いくらいにヤバイ映画だった。
ハッキリ言ってコレ、単なる「渋いハードボイルド映画」としてポップコーン片手に消費することなんて絶対不可能。角川映画という巨大なエンタメ資本のド真ん中で、突如としてバグのように産み落とされた、極めてパーソナルで純度100%の異常心理サスペンスである。
本作を読み解く上で絶対に外せないのが、主人公・伊達邦彦(松田優作)が執拗に繰り返す「写真を撮る」という行為だ。通信社のカメラマンとして世界中のガチの修羅場を渡り歩き、死線を超えまくってきた彼は、平和ボケ全開の東京の街でも、常にカメラのファインダー越しに世界をガン見している。
暗室の赤い光の中に浮かび上がる戦場の死体写真や、ターゲットとなる人間のスライドフィルム。映像の力学的に言えば、ここでのカメラは完全に「銃」の隠喩であり、シャッターを切るという行為は、引き金を引くことと同義である。
伊達邦彦は、被写体と決して交わろうとしない。ファインダーという一枚の薄いガラスを隔てることで、彼はこのピースフルな日本社会の傍観者ポジションをキープし、他者の生と死を冷酷に切り取る「特権的な死神」として君臨しているのだ。
彼にとって写真を撮る行為とは、流れる時間を強制シャットダウンし、この世界から生命の生々しいグラデーションを奪い取り、すべてを死の静寂へとぶち込むための残酷な儀式なのだろう。
もうひとつ、本作で非常に象徴的なのが、血生臭い伊達が優雅にショパンなどのクラシック音楽に聴き入る姿である。戦場の硝煙の匂いが染み付いた男と、西洋の洗練極まる構築美の結晶であるクラシック。
このエグいほどのミスマッチは、伊達の脳内で吹き荒れるカオスの裏返しでもある。己の狂気を覆い隠すための「完璧な秩序」としての音楽が、逆に彼のヤバすぎる異質さを際立たせているのだ。
そして、その異質さは共犯者となる真田(鹿賀丈史)の登場によって決定的なものとなる。縮れ毛に浅黒い肌という真田のルックスは、彼が黒人とのハーフであるという暗黙のヴィジュアル・コードだ。
ここでエグいのは、彼が「日の丸のはちまき」を巻いたゴリゴリの右翼男を無残にぶっ殺し、その直後に女性をレイプするシークエンスである。
戦場のトラウマを抱えた伊達と、血筋によってマイノリティとして排除されてきたであろう真田。純血主義で均質化された「平和なニッポン(=日の丸)」から弾き出された「異物」たちによる、日本社会そのものへの痛烈極まりない復讐であり、レイプという最も暴力的な形での蹂躙なのだ。
カットを割らないアクション
普段から映画の編集論やカッティングの連続性に並々ならぬ執着を抱いている僕の視点から言わせてもらうと、この映画のアクション演出は完全に常軌を逸している。
通常、銃撃戦といえば細かいカット割りを多用してテンポの良いリズムを作り出し、観客に「ヒューッ!」という痛快なカタルシスを提供するのがエンタメのセオリーだ。
しかし、本作における暴力には、そんな生ぬるいエンタメ的「おもてなし」など一切用意されていない。雨の夜の警官射殺シークエンスや終盤の銀行強盗シーンにおいて、キャメラは極端なまでにカットを割ることを全力で拒絶する。仙元誠三による執拗な長回し撮影は、暴力が唐突に勃発し、そして無機質に終わっていく様を、ただただ冷徹に記録し続けるのだ。
カットを割らないということはつまり、観客から「視点移動」という名の逃げ場を完全に奪い去るということ。編集のテクニックで自分の狂気を細切れにされることを断固拒否した松田優作の凄まじいエゴイズムが、この映画特有の「息が詰まるような地獄の映像体験」を見事に生み出している。
リップ・ヴァン・ウィンクルの不条理
松田優作の役作りにおける狂気は、もはや伝説というよりも神話の領域。
伊達邦彦という戦場の亡霊を体現するため、彼は過酷な絶食で体重をガッツリ削ぎ落とし、さらには頬をこけさせるためだけに、なんと自身の健康な奥歯を上下4本もぶっこ抜いたというから、正気の沙汰じゃない。
4Kデジタル修復版などの高スペックな解像度で彼の顔面を改めて観察すると、仙元誠三のハイコントラストな照明によってヌルッと浮かび上がるドクロのような骨格美に、マジでチビりそうになる。
そして迎える深夜の特急列車内でのクライマックス。柏木刑事(室田日出男)と真田を前に、伊達がアメリカの古典文学『リップ・ヴァン・ウィンクル』の物語を唐突に、そして異様な熱量で語り始めるのだ。
互いに銃を突きつけ合うバチバチの極限状態の中で、なんでいきなり長大な童話を語り出す必要があるのか。「20年間の眠りから覚め、完全に変わってしまった世界に取り残された男」の物語は、高度経済成長を経てヘラヘラと豊かになった日本社会にポツンと取り残された、伊達邦彦自身のメタファーに他ならない。
映画のテンポを思い切りブチ壊すこの長大なモノローグは、娯楽映画の文法に対する見事な自爆テロ行為であり、論理や整合性をすべて喰い破る奇跡の瞬間なのである。
狙撃される魂──引き伸ばされた粒子の向こう側
すべてが破滅に向かって爆走した後、映画はコンサートホールの客席でひとりショパンのピアノ協奏曲第1番に耳を傾ける伊達の姿を映し出す。次の瞬間、彼は見えない銃弾に撃たれたかのように大きく体をビクッと痙攣させる。
実際に何者かに狙撃されたのか、それとも戦場からずっと彼をストーキングしてきた「死神の幻影」についに撃ち抜かれた精神的なフラッシュバックなのか。真相は完全に藪の中である。しかしここで最も背筋が凍るのは、その直後のヤバすぎる映像的処理だ。
痙攣した伊達の姿で映像は突如フリーズし、画質は極端に荒いザラザラの粒子へと変貌。キャメラはゆっくりと彼から後退(プルバック)していく。それはまさに、暗室で印画紙の上に引き伸ばされた「一枚の写真」そのものだ。
かつてファインダー越しに他人の生と死を冷酷に切り取ってきた「撮影者」である伊達邦彦が、最後の最後に「被写体」へと真っ逆さまに転落し、ざらついた粒子の中に永遠の死として定着させられてしまうのである。
このあまりにも皮肉で完璧すぎる視覚的円環構造を見せつけられたとき、僕たちは彼が仕掛けた呪いからもう二度と逃れられないことを、絶望と共に悟るのである。
- 監督/村川透
- 脚本/丸山昇一
- 製作/角川春樹、黒澤満、紫垣達郎
- 制作会社/角川春樹事務所
- 原作/大藪春彦
- 撮影/仙元誠三
- 音楽/たかしまあきひこ
- 編集/田中修
- 美術/今村力
- 録音/福島信雅
- 照明/渡辺三雄
- 野獣死すべし(1980年/日本)
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