2026/3/22

『BADモード』(2022)徹底解説|フローティング・ポインツとA・G・クックが導く、NEW宇多田サウンド

『BADモード』(2022年/宇多田ヒカル)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー

10段階評価
9
GREAT

概要

『BADモード』(2022年)は、宇多田ヒカルが約4年ぶりに発表したアルバムであり、フローティング・ポインツとA・G・クックを迎えて制作された。電子音と生音が柔らかく溶け合い、英語と日本語の歌詞が自然に共存する。「BADモード」「One Last Kiss」「Somewhere Near Marseilles」などの楽曲が収録され、デジタルな質感の中に人間的な温度が漂う。長いキャリアの中で新しいサウンド領域を切り開いた一枚である。

目次

緻密なサウンドデザインと声の溶け合い

正直に言うと、15歳の宇多田ヒカルが『Automatic / time will tell』(1998年)で衝撃的なデビューを果たしてから20年余り、僕は彼女の熱心なリスナーとは言えなかった。

R&Bにはリラックスできるソフトな質感を求めてしまう僕にとって、彼女のボーカルは少し重く、強すぎた。もちろん新譜が出るたびに聴いてはいたものの、何度も繰り返し聴くようなヘビロテ盤にはなっていなかった。

だが、約4年ぶりにリリースされたアルバム『BADモード』には完全にヤラれてしまった。浮遊感のあるビートと絹のようになめらかな質感が心地よいチル系ネオソウルへと変貌を遂げ、これまでの宇多田作品にはなかった、全く新しい音響空間が広がっていたのだ。

ひとつひとつの音の配置は、とても繊細で控えめ。電子的なシンセサイザーの音色や柔らかなベースライン、時折差し込まれるシンプルなパーカッションが、楽曲全体に温かみを与えている。そして何より、宇多田ヒカルの声が空間をふわりと漂い、優しく耳を包み込んでくれる。

彼女は90年代後半のR&B路線から始まり、作品ごとに音楽性をアップデートしてきた。『DEEP RIVER』では自身の内面と向き合い、『ULTRA BLUE』ではデジタルサウンドと祈りを重ね、『Fantôme』では喪失とそこからの再生を描き出した。そして今回の『BADモード』で辿り着いたのは、テクノロジーと感情が見事に溶け合う、彼女のキャリアにおけるひとつの到達点だろう。

フローティング・ポインツとA・G・クックという、現代のエレクトロニック・ミュージック界で最もエッジの効いた二人をプロデューサーに迎えたことで、宇多田サウンドは個人の枠を飛び越え、まさにいま鳴るべき時代の音へと進化したのだ。

フローティング・ポインツとA・G・クック──革新のダブル・エンジン

フローティング・ポインツことサム・シェパードは、ジャズやクラシック、エレクトロニカを自由に行き来するイギリス出身の音楽家であり、DJ、プロデューサーでもある。クラシック音楽への深い理解に基づいた、知的でありながらも感情を揺さぶるダンスミュージックが持ち味だ。

Cascade
フローティング・ポインツ

一方のA・G・クックは、これまでのポップスの構造を極端にデフォルメし、音の歪みやループを大胆に取り入れるハイパーポップの仕掛け人。ポップミュージックの限界を常に広げてきた、破壊的で革新的なクリエイターである。

フローティング・ポインツが作り出す内省的なサウンドと、A・G・クックが描く過剰なまでにデジタルな感情。向いている方向は真逆のはずなのに、『BADモード』の中ではこの二つが奇跡的に溶け合っている。ひとつの曲の中に静寂と飽和、生身の温かさと機械的な冷たさが違和感なく同居しているのは、この二人のプロデュースがあればこそだろう。

『BADモード』における最大の革新、それは声の扱い方にある。これまでの作品では、彼女のボーカルは常に楽曲のど真ん中に堂々と置かれていた。

しかし今作では、声がまるで空間の一部のように配置されている。心地よいエコーの深さや、音の広がり。それらが組み合わさることで、彼女の声がサウンドの中で静かに呼吸しているかのような感覚を生み出している。

このアプローチは、フローティング・ポインツが得意とする空間設計と、A・G・クックのボーカロイド的音声加工のセンスが交差することで実現した。

その結果、彼女の声は生身の人間と機械の狭間をゆらゆらと漂い、私たちリスナーに「人間の声の魅力とは何か」を改めて問いかけてくるようだ。

時間の波に漂う音の建築

タイトル曲の『BADモード』や、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソング『One Last Kiss』など名曲揃いだが、個人的に最も深く心に刺さったのは、10曲目の「Somewhere Near Marseilles -マルセイユ辺り-」。

アンビエント(環境音楽)とネオソウルが溶け合い、繊細にデザインされた音が空間を満たしていく。無駄を削ぎ落としたシンプルなリズムと、メロウなメロディ。やがて彼女の声が、まるで潮の満ち引きのように静かに消えてはまた現れる。その繰り返しは、まるで耳で観る一本の映画のようだ。

10分を超える長い尺の中で、クラブミュージック特有の時間の流れと、ポップスのキャッチーなメロディが交錯する。音がループしながら少しずつ表情を変えていくその構造は、静かに熱を帯びていく夜の都市の風景にも似ている。

映像作家の児玉裕一が監督を務めたミュージックビデオも、文句なしに最高だ。八景島シーパラダイスで撮影された12分超の縦型映像は、夜の水族館をダンスフロアへと変え、閉じられた世界での秘密のパーティーを見事に視覚化している。

そしてこのアルバムでは、日本語と英語が完全に共存しているのも大きな特徴だ。日本語の柔らかな母音がシンセサイザーの余韻と響き合い、英語のシャープな子音がビートの一部として溶け込んでいく。

彼女のバイリンガルという強みは、単なる言語の使い分けを超え、もはや二つの音色を持つ楽器として機能している。言語の壁を越えることで、彼女の声はより抽象的で心地よい「音」へと昇華されているのだ。

最後に、タイトルの“BAD”という言葉。これは決してネガティブな意味ではなく、思い通りにいかない状況や制御不能な自分を「受け入れるモード」としての“BAD”なのだと思う。

完璧であることをやめ、心の揺らぎやノイズをそのまま音楽に変える。宇多田ヒカルは、綺麗に整った世界よりも、いびつで生々しい「壊れた美しさ」を選び取ったのだ。

『BADモード』は、混沌とした感情を優しく抱きしめてくれる音楽だ。音が漂い、言葉が溶け合う中で、聴いているこちらの心も少しずつ軽くなっていく。今の時代に私たちが必要としているのは、きっとこうしたやわらかな不安定さなのだろう。

アルバム情報
プレイリスト
  1. 1. BADモード
  2. 2. 君に夢中
  3. 3. One Last Kiss
  4. 4. PINK BLOOD
  5. 5. Time
  6. 6. 気分じゃないの (Not In The Mood)
  7. 7. 誰にも言わない
  8. 8. Find Love
  9. 9. Face My Fears (Japanese Version)
  10. 10. Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー
  11. 11. Beautiful World (Da Capo Version)
  12. 12. キレイな人 (Find Love)
  13. 13. Face My Fears (English Version)
  14. 14. Face My Fears (A. G. Cook Remix)
宇多田ヒカル アルバムレビュー