2026/4/30

『CHASM』(2004)徹底解説|坂本龍一の21世紀的マニフェスト

『CHASM』(2004年/坂本龍一)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー

10段階評価
7 GOOD
概要

『CHASM』(2004年)は、坂本龍一が21世紀の幕開けと共に、混迷を深める世界情勢への応答として提示した野心的なソロ・アルバム。タイトルの「割れ目(チャズム)」が示す通り、デジタルとアナログ、あるいは西洋と東洋の間に横たわる断絶を、緻密な電子音響によって繋ぎ止めるような思索的な構成が取られている。韓国のラッパーやデヴィッド・シルヴィアンを起用した楽曲に見られるように、多言語的なアプローチを通じて反戦のメッセージや社会への批評眼が静かに、しかし力強く刻み込まれた。時代の空気を鋭く切り取った本作は、単なる電子音楽の枠を超え、現代社会における祈りの形を提示している。

受賞歴
  • 2005年ミュージック・マガジン:年間ベスト・アルバム エレクトロニック・ミュージック部門 第2位
目次

9.11と「非戦」

1995年の『Smoochy』から数えて、実に9年ぶり。坂本龍一が満を持して発表したオリジナル・ソロ・アルバム『Chasm』(2004年)は、単なる久しぶりの新作という生易しい枠組みには到底収まりきらない、あまりにも巨大で静かなエネルギーを秘めた作品だ。

このアルバムが産声を上げた背景には、あの2001年の9.11同時多発テロという、歴史の大きすぎる転換点が存在している。当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュは、一般教書演説においてイラク、イラン、北朝鮮の3カ国を名指しし、悪の枢軸として声高に糾弾した。

その結果、世界は「正義のアメリカ」と「反アメリカのテロリスト」という、あまりにも乱暴で単純化された二元体制へと急速に塗り替えられてしまったのだ。

愛国心や民主主義といったあらゆる美辞麗句によって、暴力的なイラク戦争が正当化されていく不穏な空気のなかで、教授はきっぱりと“非戦”というテーマを掲げ、自らの所信表明を行う。

武力による報復の連鎖を明確に拒絶し、表現者としてどう世界と対峙するべきか。そんな彼にとって、“Chasm=深い割れ目、隔たり”という重いタイトルを冠したこのアルバムを世に問うことは、もはや逃れられない必然のプロセスだったのだと思う。

彼が本作で目指したのは、分断された世界を音楽の力で縫い合わせることだったのだろう。デジタルとアナログ、アンビエンスとノイズ、東洋と西洋、そしてポップとアバンギャルド。相反し、対立しあうあらゆる二項対立を、ひとつのサウンドスケープの中に矛盾なく共存させること。

たとえばM-3に収録されている「War & Peace」なんていう曲のタイトルは、その切実な意図を清々しいほど直裁に物語っている。

菜食主義的なノイズと、枯山水という新たな境地

アルバム全体を包み込んでいる音のプレスはとても軽く、鋭利なエッジも驚くほど優しく丸みを帯びている。だからこそ、ノイズやグリッチ音が多用されているにもかかわらず、そのオーガニックなサウンドはすんなりと僕たちの耳に馴染んでしまう。相も変わらぬ教授の精緻極まりないサウンド・プロダクションには、ただただ舌を巻くばかり。

一時期の坂本龍一は、いっさいの肉を口にしない厳格なマクロビオティック主義のベジタリアンだったらしい。M-2の「coro」のような、本来なら耳障りになりがちなアバンギャルドなノイズ・ミュージックすら、どこか端正で美しいサウンドのタペストリーに紡ぎ上げてしまうその独特の手触り。

そこには、いかにも彼らしい菜食主義者的な匂いを感じてしまい、聴きながら少しクスッとしてしまう。血の匂いがまったくしない、徹底的に浄化されたノイズなのだ。

かつて、彼がポップ路線を堂々と貫いたアルバム『Sweet Revenge』(1994年)を発表した直後、「坂本はすっかり軟弱になってしまった!」「ポップスに魂を売ったのか!」などと、一部のコアなファンや評論家から激しい批判を浴びたことはまだ記憶に新しい。

しかし、それから10年の歳月を経て生み出されたこの『Chasm』は、そんな外野のノイズすらも軽やかに通り越し、もはや一切の無駄を削ぎ落とした枯山水のような静謐で哲学的な境地にまで辿り着いている。

石と砂だけで大自然のダイナミズムを表現する日本庭園のように、最小限の音の配置によって、広大な宇宙を描き出しているのだ。

音のナノ・テクノロジー化とSKETCH SHOWとの共鳴

もちろん、この枯山水のような極限の音響空間を構築できた背景には、彼自身の精神的な成熟だけでなく、コンピューターやハードウェアの革新的な進歩も決して無関係ではない。

盟友である細野晴臣、高橋幸宏とのユニット「HUMAN AUDIO SPONGE」(SKETCH SHOW+坂本龍一)が、エレクトロニカの祭典であるイベント「SONOR」でライブを行った際、教授はメディアに向けてこんな非常に興味深い発言を残している。

「昔はレゴみたいな部品を土台にして音楽をつくっていたのだが、今ではその部品という概念すらなくなって、音楽製作の自由度が飛躍的に上がった」

これは換言すれば、テクノロジーの圧倒的な発達によって、音を構成する最小単位が極限までミクロ化、あるいはナノ化されたことを意味している。

かつては、シンセサイザーのプリセット音や、サンプリングしたフレーズというブロックを組み合わせて曲を作っていたものが、今や音の波形そのものをゼロからプログラミングし、自由にデザインできるようになったのだ。

エレクトロニカ・ミュージックの世界にも、ついにナノ・テクノロジー化の波が押し寄せた。サイン波(音の最小単位)で緻密に、そして気の遠くなるような作業の果てに構成された音の粒たちは、最高級のベルベットのようになめらかで、春の羽毛のように繊細だ。

ノイズすらも心地よい。そして何よりも、圧倒的に美しい。

国境と言語を超えるヒップホップ

アルバムのリードトラックであり、本作のテーマを最も力強く象徴しているのが、韓国のヒップホップ・アーティストであるMC Sniperをフィーチャーした「Undercooled」だろう。

「冷やしすぎた」というタイトルが示す通り、この曲は過熱する世界のナショナリズムや報復感情に対し、「もう少し頭を冷やそうぜ」というクールなメッセージを突きつけている。

坂本龍一の楽曲に韓国語のラップが乗るという構成自体が、当時の東アジアの政治的緊張や、アメリカを中心とした英語圏の文化支配に対する一つの鮮やかなアンチテーゼとして機能している。

カヤグムのような東洋の伝統的な弦楽器のサンプリングがミニマルにループする中、MC Sniperの熱を帯びた、しかし決して感情に流されすぎない硬質なフロウが重なっていく。西洋のテクノロジーと東洋の土着性、静寂なトラックと雄弁なラップ。ここでもまた、見事なまでに二項対立の融和が図られているのだ。

音楽評論の世界では、教授は常に教授としてどこかインテリジェンスの象徴として語られがちだ。しかし、このトラックで聴ける彼のビートメイクは、現行のアンダーグラウンドなヒップホップ・シーンの最前線にそのまま持ち込んでもまったく遜色のない、ヒリヒリとしたストリートの空気を纏っている。

彼が単なる現代音楽の巨匠に収まることなく、常に同時代的なポップミュージックやストリートカルチャーの鼓動と同期し続けてきた証拠が、この一曲に凝縮されている。

メロディーから音響への回帰

『Chasm』の製作にあたって、彼は「自発的に、ほとんど何も方針を決めないまま、ただ作りたいという気持ちだけを頼りに作った」とインタビューで語っている。コンセプチュアルな頭でっかちの作品に見えて、実は非常に直感的で身体的なアプローチから生まれているという事実は、ちょっとした驚きだ。

この手法を聞いて、往年のファンならハッとするはずだ。そう、全く同じアプローチで作られた過去の名盤がある。1984年にリリースされた『音楽図鑑』だ。あのアルバムもまた、毎日スタジオに通い、日記を書くように無意識の中から音をすくい上げていくという実験的なセッションから生まれた作品だった。

しかし、アプローチは同じでも、出来上がった作品のベクトルは大きく異なる。『音楽図鑑』が、次々と湧き上がる豊潤な「メロディーの美しさ」が際立つアルバムだったとすれば、そこから20年の時を経て生まれた『Chasm』において僕たちがまず愛でるべきなのは、メロディー以前に存在する「音という現象そのものの美しさ」なのだ。

音の響き、余韻、沈黙、そして微細なノイズ。世界が「アメリカ」と「反アメリカ」という真っ二つに引き裂かれ、深い隔たり(Chasm)が生まれてしまった2004年。

その分断された溝を埋めるのは、雄弁な政治家の言葉や暴力的な正義などではなく、この極限まで磨き上げられ、国境も言語も超えていく音の粒たちだったのかもしれない。

教授が残したこの静かな抵抗と融和のサウンドスケープは、リリースから長い年月が経ったいま聴き返しても、少しも古びることはない。むしろ、さらに世界が分断されつつある現在においてこそ、より一層のリアリティを持って僕たちの鼓膜と心に響いてくるのだ。

アルバム情報
プレイリスト
  1. 1. undercooled
  2. 2. coro
  3. 3. War & Peace
  4. 4. CHASM
  5. 5. World Citizen
  6. 6. only love can conquer hate
  7. 7. Ngo / bitmix
  8. 8. break with
  9. 9. pantonal
  10. 10. the land song
  11. 11. 20 msec.
  12. 12. lamento
  13. 13. World Citizen
  14. 14. Seven Samurai - ending theme
坂本龍一 アルバムレビュー