『Everybody Digs Bill Evans』(1959年/ビル・エヴァンス)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『Everybody Digs Bill Evans』(1959年)は、ビル・エヴァンスが発表した2作目のリーダー・アルバムであり、オリン・キープニュースをプロデューサーに迎えて制作された。サム・ジョーンズの堅実なベースやフィリー・ジョー・ジョーンズの躍動感あるドラムと、エヴァンスのリリカルなピアノが柔らかく溶け合い、クラシックの素養とジャズの即興性が自然に共存する。「Minority」「Night and Day」「Peace Piece」などの楽曲が収録され、洗練されたアンサンブルの中に内省的で静謐な温度が漂う。彼が自身の音楽的アイデンティティと深く向き合い、モダン・ジャズにおける新しいサウンド領域を切り開いた一枚。
賛辞の重圧と、皮肉屋エヴァンスの孤独な出発
『Everybody Digs Bill Evans』(直訳:みんなビル・エヴァンスに夢中!)という、どこか照れくささすら滲むアルバムタイトル。
そのレコードジャケットのオモテ面には、マイルス・デイヴィス、アーマッド・ジャマル、ジョージ・シアリング、そしてキャノンボール・アダレイといった名だたる音楽の神々が、若きエヴァンスに向けて最大級の賛辞を寄せている。
I’ve sure learned a lot from Bill Evans. He plays the piano the way it should be played.
私はビル・エヴァンスから実に多くのことを学んだ。彼は、ピアノという楽器が弾かれるべき理想の形で演奏する/マイルス・デイヴィス
Bill Evans is a great artist. His piano playing has the ring of poetry.
ビル・エヴァンスは偉大な芸術家だ。彼のピアノの打鍵には、詩の響きがある/アーマッド・ジャマル
Bill Evans has a rare combination of feeling for swing, plus a very harmonic touch.
ビル・エヴァンスは、スウィングへの感覚と、極めて美しいハーモニーのタッチを併せ持つ稀有な存在だ/ジョージ・シアリング
Bill Evans is one of the few who has a completely fresh approach to the piano. He has a rare ability to make the piano sing.
ビル・エヴァンスは、ピアノに対して完全に新しいアプローチを持つ数少ない一人だ。彼はピアノを歌わせるという、類い稀な才能を持っている/キャノンボール・アダレイ
しかし、当のビル・エヴァンスご本人は、このあからさまな特別扱いにどこか冷めた距離を置き、プロデューサーに対して「どうして僕の母親のコメントは載せなかったんだい?」と冗談めかして毒づいたという。
過剰な称賛を徹底的に嫌い、音楽そのものの内側に深く閉じこもるように生きた男の、静かで鋭い皮肉。そのひと言だけで、彼の譲れないストイックな美学の一端がハッキリと見えてくるではないか。
録音が行われた1958年12月。当時エヴァンスはマイルス・デイヴィス・セクステットに在籍し、『Milestones』(1958年)、『Kind of Blue』(1959年)と、モード・ジャズの最前線に身を浸していた。
誰よりも繊細な耳で音楽の変化の気配を掴み取り、その圧倒的な感受性を、リーダー・アルバムという形でピアノの鍵盤へと深く沈めていったのだ。
透明な時間を刻む、世界で最も静かな革命
このアルバムには、バップの熱気を帯びた多くの名演が収められているが、やはり最終的にはソロ・ピアノ曲「Peace Piece」に到達せざるを得ない。
左手の二和音が、まるで心臓の鼓動のように同じリズムとコードで静かに、永遠に往復し続ける。そして、その強固な土台の上で、右手の旋律が水面に落ちる光の粒のように、自由に、しかし儚く変形し続けるのだ。
この構造は、のちにスティーヴ・ライヒらが提唱するミニマル・ミュージックにも似ている。同時に、まるで水墨画のような東洋的な静謐と余白の美を湛えている。
音と音の間に漂う、ヒリヒリするような呼吸。少しでも強く触れれば崩れ落ちてしまうほどの脆さ。彼が幼少期からクラシック音楽で培ってきたポリフォニーの感覚は、クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルの影をほのかに、しかし確実に映し出している。
「月の光」の柔らかな光彩や、「夜のガスパール」の揺らぎのような色彩感覚。一音ごとの濃淡が、ただのジャズの即興演奏ではなく、もはや一枚の完璧な音の絵画として空中に浮かび上がる。
「Peace Piece」を聴くと、僕たちの生きる現実世界は完全に静止する。エヴァンスの内側に深く沈んでいく時間が、外側のせわしない時間を上書きし、聴き手の身体はどこか遠くの宇宙へと連れ去られてしまう。
僕はこの曲が、世界で最も美しいジャズ・ピアノだと確信している。高度な技法とか構造とかの問題じゃない。彼が鳴らした音が触れる、精神の深さの問題なのだ。
トリオとソロが交差する、誕生のドキュメント
本作の魅力は、エヴァンスの孤独なピアニズムを際立たせるための、極端なコントラストにある。録音に集ったリズムセクションは、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラム)とサム・ジョーンズ(ベース)という、最強レベルの手練。
ハードバップの骨格を知り尽くし、汗が飛び散るような鍛え抜かれたビートを刻むこのふたりに対して、エヴァンスは決してマッチョな「力」で対抗しようとはしない。むしろ彼らの強烈なアタックを、圧倒的な静けさと知性で受け止めるように、冷ややかに音を置いていくのだ。
M-2「Young and Foolish」のようなトリオ演奏では、バップの伝統をなぞりながらも、エヴァンス独自の“周縁のピアニズム”が際立っている。
旋律をステージのど真ん中で大声で奏でるのではなく、あえて周囲の余白をふらつくように、影を踏むように進む。コードの陰影は深く、ひとつの音が次の音の影をズルズルと引き連れていく。その影の美しい連鎖こそが、彼特有のグルーヴを形成している。
面白いのは、「Peace Piece」だけでなく、「Lucky to Be Me」や「Epilogue」といった完全なソロ・ピアノのトラックが配置されていることだ。
強靭なリズム隊とのスリリングな対話から一転、リズムの土台をすべて引っぺがし、彼ひとりが鍵盤と向き合う孤独な時間。エヴァンスの音は、強靭なリズムの上に乗っていても、ソロで弾いていても、常に孤独な方向(自分自身の内側)へと歩いていこうとする。外へ向かって叫ぶのではなく、内へ向かって問いかける。光の中心を避けて、光と影が触れ合う縁へと向かうのだ。
ビル・エヴァンスは、ビバップの速度と過剰な技巧を完全に相対化し、内省的な和声の思索へと大きく舵を切っていた。ピアノ・トリオという形式を、単なるアンサンブルから、ひとりの精神の探検装置へと変貌させた。
エヴァンスは音のデカさではなく、圧倒的な静けさを武器とする。『Everybody Digs Bill Evans』は、不世出のピアノの詩人の美学が、初めてその完璧な輪郭を世界に露わにした、震えるような誕生のドキュメントなのだ。
- アーティスト/ビル・エヴァンス
- 発売年/1959
- レーベル/リバーサイド・レコード
- ジャンル/ジャズ
- プロデューサー/オリン・キープニュース
- 1. Minority
- 2. Young and Foolish
- 3. Lucky to Be Me
- 4. Night and Day
- 5. Epilogue
- 6. Tenderly
- 7. Peace Piece
- 8. What Is There to Say?
- 9. Oleo
- 10. Epilogue
- 11. Some Other Time
- Everybody Digs Bill Evans(1959年/リバーサイド・レコード)
- Waltz for Debby(1961年/リバーサイド・レコード)
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