『Inferno』(2026年/ボーズ・オブ・カナダ)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『Inferno』(2026年)は、スコットランドが誇る孤高のエレクトロニック・デュオ、ボーズ・オブ・カナダが、『Tomorrow’s Harvest』(2013年)以来となる13年もの沈黙を破り、混迷を極める現代社会の空気へと冷徹かつ親密な眼差しを向けた、5作目となるアルバム。マイケル・サンディソンとマーカス・イーワンの二人が、前作で提示した文明の帰結というテーマをより深く掘り下げ、彼らの代名詞である「陽に焼けた古いテープ」のような歪んだノスタルジックな音像と、タイトルが暗示する黙示録的な重低音を完璧に調和。不穏な終末の気配と、どこか懐かしくも奇妙な温かみを帯びたメロディが共存するその音響空間は、崩壊していく世界をただ静かに見つめ続ける。
脱・VHSのノスタルジア
僕が一番熱心にエレクトロニック・ミュージックを聴き漁っていたのは、ゼロ年代の初頭だった。
そのとき、誰よりも傾倒していたのがボーズ・オブ・カナダ(Boards of Canada)。彼らが鳴らす、どこか記憶の底をくすぐるような、ノスタルジックで温かい音像に完全に心を奪われていたのだ。
あれから長い時間が経ち、前作『Tomorrow’s Harvest』(2013年)から数えて実に13年という歳月が流れた。長い長い沈黙を破り、彼らの5枚目となるスタジオアルバム『Inferno』(2026年)がついにリリース!
全18曲、約70分。長らく隠遁していたスコットランドの自営スタジオ「Hexagon Sun」の奥深くから現れたこの長大な作品は、僕がかつて魅了されたあの頃の郷愁など微塵も持ち合わせていない、圧倒的スケールのコンセプトアルバムである。
マイケル・サンディソンとマーカス・イオンの兄弟デュオが本作で最初に見せつけるのは、リスナーが抱くパブリックイメージへの鮮やかな裏切りである。
「日焼けしたポラロイド写真」や「伸びかけたVHSテープ」に例えられてきた、あのローファイで温かみのあるサウンドスケープは、本作では意図的かつ徹底的に排除されている。
代わりに押し寄せてくるのは、残酷なまでに解像度が高い、極めて現代的なプロダクションだ。かつての彼らが愛用した古いサンプラーのくぐもった音色とは対極にある、冷徹なモジュラーシンセの音が空間を切り裂く。そして、生ドラムの乾いたスネアと、みぞおちを正確に狙い撃つ重厚なサブベースがうねりを上げるのだ。
例えるなら、かつて慣れ親しんだ粗い8ミリフィルムの不鮮明な映像を、最新の技術で極限までクリアな4Kデジタル修復版として見せられたような衝撃。
過去作の幽玄なアンビエントから一転し、恐ろしいほどの生々しさと肉体的なライブ感を放つこの音像は、もはや「失われた未来の夢」ではなく、逃げ場のない「冷酷な現在」を突きつけてくる。
彼らは過去を懐かしむことをやめ、今まさに進行している世界の崩壊を、冷徹なドキュメンタリーとして記録する道を選んだのである。
宇宙的虚無と暗号化されたトラックリスト
彼らの持ち味といえば、数秘術やオカルト、そして科学的アプローチの融合だが、本作の制作背景や楽曲のテーマにもそれは色濃く反映されている。
ダンテの叙事詩に基づくタイトルからもわかるように、本作のテーマはずばり「地獄巡り」だ。しかし、ただおどろおどろしいだけでなく、各トラックには彼ら特有の知的な暗号が散りばめられている。
たとえば「Prophecy at 1420 MHz」という曲。調べたらこの「1420 MHz」とは、宇宙空間の水素原子が放つ電波の周波数を指し、地球外知的生命体探査(SETI)で観測対象となる重要な帯域のことらしい。
深宇宙からの未知の通信と、イスラム学者ホセイン・ナスルが語る神の究極的共鳴というボーカルサンプルを意図的に混線させるセンスは、まさに彼らの独壇場といえる。
ほかにも、ビッグバンの初期元素に神話の怪物を掛け合わせた「Hydrogen Helium Lithium Leviathan」や、サンスクリット語で地獄を意味する「Naraka」など、天体物理学と終末神学が驚くほど高い次元でマッチング。
人間という存在がいかにちっぽけであるかを、宇宙的なスケールで突きつけるこれらのアプローチは、リスナーに不思議な畏敬の念と心地よい虚無感を与えてくれる。
卓越したカッティングが生む、狂気のコラージュ
ボーカルサンプリングの異質で暴力的な使い方は、本作を単なる電子音楽の枠から完全に逸脱させている。
「Age of Capricorn」で響き渡るキリスト教の説教は、不気味なリバーブ処理によって空間が歪み、まるで上質なサイコロジカルホラー映画を観ているような息苦しさを生み出すのだ。
そういや、A24製作の映画『バックルーム』(2024年)でメガホンを取ったケイン・パーソンズ監督も、ボーズ・オブ・カナダの音楽から多大な影響を受けたと公言していたっけ。
リミナルスペース(境界空間)やアナログホラーと呼ばれるネット発の不気味な映像美学は、彼らがかつて提示した「歪んだノスタルジア」の遺伝子を間違いなく受け継いでいる。本作『Inferno』における暴力的なカッティングと狂気的な空間設計は、図らずもそうした現代の視覚的恐怖と見事にリンクしている。
特に度肝を抜かれるのが、「Father and Son」におけるトラックの解体と再構築の手法。骨太でシンプルなビートの上で、複数のボーカルサンプルが原型をとどめないほど高速かつ緻密に切り刻まれていく様子は圧巻の一言だ。
この鋭いカッティングの連続は、アヴァランチーズの歴史的名曲「Frontier Psychiatrist」をダークウェブの深層で反転させ、より攻撃的にアップデートしたような狂騒状態を作り出している。
続く「Blood In The Labyrinth」ではシタールを用いたアシッドなサイケデリック展開が待ち受け、見事な音響的編集術によって、リスナーは気付けば彼らの仕掛けた迷宮の奥深くに取り残されてしまうのである。
現実が追いついてしまったディストピア
このアルバムのリリースを巡る最大のブラックジョークは、外部の現実世界から唐突にもたらされた。収録曲の「Deep Time」が、あろうことかトランプ政権のXアカウントで、軍事プロモーション映像のBGMとして無断使用されるという異常事態が起きたのである。
長年メディアの喧騒を避け、スコットランドの豊かな自然の中で世捨て人のように音作りに没頭してきた兄弟の楽曲が、よりによって最も生々しい権威主義的なプロパガンダの背景で鳴り響くという強烈な皮肉。
これに対して、所属レーベルのWarp Recordsが即座に激怒し、政治利用を一切容認しないという異例の強い抗議声明を叩きつける事態にまで発展した。
しかし、この予期せぬシンクロニシティは、結果として本作が持つ黙示録的なテーマのリアリティを極限まで高める、強烈なスパイスとなってしまった。
彼らが意図したかどうかにかかわらず、分断と混沌が渦巻く現代の空気感は、このアルバムを見事に「狂った時代を象徴するサウンドトラック」へと仕立て上げてしまったのだ。
かつての美しいノスタルジアと決別し、生々しいまでの解像度で現代の暗部を切り取った本作は、間違いなく賛否両論を巻き起こすだろう。しかし、この歪みに歪んだ高次元の地獄巡りこそが、今の我々に最も必要なカンフル剤なのかもしれない。
参考文献・出典
- アーティスト/ボーズ・オブ・カナダ
- 発売年/2026
- レーベル/ワープ・レコーズ
- ジャンル/IDM、エレクトロニック、アンビエント
- プロデューサー/マイケル・サンディソン、マーカス・イーワン
- 1. Ash and Amber
- 2. Red Forest
- 3. Inferno
- 4. Cipher Seven
- 5. Burned Tape
- 6. Smoldering Sky
- 7. Obsidian
- 8. Solar Flare
- 9. Eternal Return
- Geogaddi(2002年)
- The Campfire Headphase(2005年)
- Tomorrow's Harvest(2013年)
- Inferno(2026年)
![Inferno/ボーズ・オブ・カナダ[CD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/91tmpem2dgL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1780007134227.webp)