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I quit/ハイム

『I quit』──ハイムは本当に“やめた”のか?

『I quit』(2025年)は、三姉妹バンドHAIM(ハイム)が自らの過去と向き合い、痛みを抱えながらも前進する姿を描いた4thアルバム。幼少期に観た映画『すべてをあなたに』の記憶を手がかりに、“やめる”ことを“始める”こととして歌い直す。ロサンゼルスのスタジオで生まれたその音は、孤独を恐れず、再び立ち上がる人間の呼吸のように鳴り響く。

フジロックで確信した、三姉妹の神話的リアリティ

こちとら50を過ぎたオッサンなのに、たったひとり2025年フジロックへいそいそと赴いた理由は、もちろんHAIMだった。

羊文学から続けてスタンディングで観たため、合計3時間以上立ちっぱなし。もはや修行の域だったが、それでも最前列で彼女たちを目撃したかったのだ。

ダニエルの立ち姿の端正さ、アラナの狂騒的な煽り、エスティの般若のような形相と歪んだベースライン。三姉妹がステージ上に揃うだけで、すでに祝祭の均衡が生まれていた。

光と汗が交錯し、音の断片が霧のように舞う中、「Summer Girl」が始まった瞬間、僕は確かに泣いた。彼女たちの音楽には、ライブハウスでもなく、フェスでもなく、「生の共同体」を一瞬だけ生成する力がある。その場にいるすべての人間が、孤独の総和としてひとつの生命体になった。 その場に居合わせた者として、それは断言できる。

帰路のイヤフォンから流れた最新アルバム『I quit』は、ライヴの余韻とともに、痛みの残響を抱えていた。タイトルの由来は、トム・ハンクス監督の映画『すべてをあなたに』(1996年)。

バンドリーダーのジミーが商業的命令に反発し、「I quit, I quit, I quit, Mr. White」と叫ぶ場面。それは拒絶の言葉であると同時に、創造への再起を告げる呪文でもある。

ハイム三姉妹が幼少期にこの映画を繰り返し観ていたことは象徴的だ。彼女たちにとって“I quit”とは、敗北ではなくリスタートの合図だったのだろう。

スタジオでふとこの言葉を口にしたとき、三人はふと気づいた。これは自分たちのアルバムを貫く精神そのものだと。やめることは、始めること。閉じることは、開くこと。その転倒の構造こそ、HAIMの音楽的アイデンティティを支える中核なのだ。

ジャンルを越境する“エンパワーメント・サッド・バンガー”

1曲目「Gone」はまさにこのアルバムの宣言文だ。過去の誤解や傷を断ち切り、「もう終わりにした」と歌う声は、怨嗟ではなく浄化の響きを持つ。

ギターリフの鋭さ、ドラムのドライブ感、そしてダニエルのヴォーカルの切実な吐息。すべてが「終わり」の音ではなく、「始まり」の音として鳴っている。

そこにあるのは、自己を再定義する勇気だ。アルバム全体が示すのは“立ち止まらない痛み”の美学であり、彼女たちの音楽が常に持つ陽光のような明るさは、悲しみを否定するためではなく、それを抱えたまま前進するための光。

ハイムは「感情を制御する」のではなく、「感情を鳴らす」ことでサバイヴする。その演奏は、苦しみを解体し、ビートに変換するプロセスそのものを提示している。

「Relationships」では、愛情と摩擦の綱引きが描かれる。人間関係という不確実な場をドラムマシンの単調なリズムに重ね、三姉妹のハーモニーがその上に層を成す。まるで三つの声が異なる次元で響きながら、やがてひとつに収束していくようだ。

この構造はハイムというユニットそのもののメタファーでもある。M-8「Lucky stars」はシューゲイザー的轟音に包まれ、夢と現実の境界を曖昧にする。M-9「Million years」ではUKガラージのビートが肉体を駆動させ、M-12「Spinning」ではディスコティークなグルーヴが昂揚と陶酔を誘う。

どの曲も「悲しみ」を素材にしているが、結果的に鳴っているのは解放のリズムだ。ハイムは悲しみの形を変えることに成功している。憂鬱を沈めるのではなく、加速させるのだ。

このアルバムを“エンパワーメント・サッド・バンガー”と呼ぶのは的確な表現だろう。泣きながら踊ること。それが彼女たちの掲げる抵抗のスタイルなのだから。

孤独の肯定としてのポップミュージック

ハイムの音楽に通底するのは、孤独を恐れず、むしろそれを自分の燃料にする姿勢だ。「一人で立つ」ということは、拒絶ではなく創造の条件である。彼女たちはロックの伝統やフェミニズムの言語に頼らず、自分たちの声と肉体で“生き延びる術”を再発明した。

そのサウンドには、都市の喧噪もSNS的ノイズも混ざっているが、最終的に残るのは「人間の呼吸」だ。痛みの中にしか本当の輝きはないと知っている者だけが鳴らせるリズム。

『I quit』という言葉は、実は「私はもう一度始める」という意味に聞こえる。だからこそ、彼女たちの音楽は決して悲劇では終わらない。そこには必ず微笑がある。

このアルバムは敗北宣言ではなく再起宣言だ。過去の痛みや矛盾を抱えたまま、それでもステージに立つことを選んだ三姉妹。その姿は、ロックの歴史が失いかけた誠実さと肉体性を取り戻している。

彼女たちは「悲しみの終わり」を歌わない。「悲しみと共に生きる術」を歌うのだ。だからHAIMはいつも前を向く。彼女たちのビートは、自己救済のための祈りであり、同時に聴く者をも包み込む救いである。孤独も痛みも、もはや恥ではない。むしろ、それが生きるための証明なのだ。

まさに“エンパワーメント・サッド・バンガー”。だから、いつだってハイムの音楽は最高なのだ。

DATA
  • アーティスト/ハイム
  • 発売年/2025年
  • レーベル/Columbia
PLAY LIST
  1. Gone
  2. All over me
  3. Relationships
  4. Down to be wrong
  5. Take me back
  6. Love you right
  7. The farm
  8. Lucky stars
  9. Million years
  10. Everybody’s trying to figure me out
  11. Try to feel my pain
  12. Spinning
  13. Cry
  14. Blood on the street
  15. Now it’s time