『No Geography』(2019年/ケミカル・ブラザーズ)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『No Geography』(2019年)は、ケミカル・ブラザーズ(The Chemical Brothers)が結成から四半世紀を経て、自らの原点である「自由なダンスミュージック」へと回帰した、圧倒的なエネルギーに満ちた傑作。本作でトム・ローランズとエド・シモンズは、キャリア初期を支えたヴィンテージ機材を再び導入。強靭なビートと祝祭的なサウンドスケープが、かつてないほどの鮮烈さで鳴り響く。初期のビッグ・ビートの荒々しさを持ちながらも、その音響構築は極めて緻密であり、幾層にも重ねられた電子音のレイヤーがダンスフロアを多幸感で包み込む。
- 第62回グラミー賞:最優秀エレクトロニック/ダンス・アルバム賞、最優秀ダンス・レコーディング賞
- 2019年NME:年間ベストアルバム第15位
- 2020年ミュージック・マガジン:年間ベスト・アルバム エレクトロニック・ミュージック部門 第1位
EDMブームの終焉と、UKダンス・アクト三巨頭の帰還
2010年代後半のダンス・ミュージック・シーンは、巨大なうねりを見せたEDMブームが静かに終息へと向かい、明確な多様化の局面を迎えていた。
スタジアムや巨大フェスに向けた画一的なビッグルーム・サウンドは徐々にその熱を失い、代わりにリスナーが求めたのは、テクノやハウスが本来持っていたオーセンティックなグルーヴ、あるいはフローティング・ポインツなどに代表されるジャズや実験音楽との高度な融合だった。
そんな過渡期とも言えるタイミングで、1990年代のレイヴ・カルチャーを牽引してきたUKの大御所アクトたちが、次々と重い腰を上げて新作アルバムをリリースしていたのは決して偶然ではない。
プロディジー、アンダーワールド、そしてケミカル・ブラザーズ。彼らはシーンの急激な変化に呼応するように、それぞれのやり方で「ベテランである自分たちがいま、一体何を鳴らすべきか」を世界に向けて力強く提示してみせたのだ。
だが、その三者のアプローチは見事なまでに三様だった。プロディジーは『No Tourists』(2018年)において、相も変わらずアドレナリンが脳髄から大爆発するような攻撃的で暴力的なブレイクビーツを叩きつけ、自らのスタイルを死守した。
一方のアンダーワールドは、1年間にわたって毎週新曲を配信し続けるという過酷で実験的なプロジェクトの集大成である『Drift Series 1』(2019年)で、長期的な試行錯誤の末に“常に変容し続ける自分たち”の最新形態を世に問うた。
倉庫から掘り起こした機材が鳴らす、直感的な原点回帰
プロディジーの「スタイル貫徹型」でもなく、アンダーワールドの「変容型」でもない。ケミカル・ブラザーズが通算9作目となる『No Geography』(2019年)で選択した道は、非常に特異で、かつエキサイティングなものだった。
彼らは本作を制作するにあたり、なんと最新のデジタル機材に頼り切るのではなく、1990年代のデビュー当時に使っていた古いサンプラーやリズムマシン、アナログシンセサイザーを、埃を被った倉庫の奥底からわざわざ掘り起こしてきたのだ。
当時の機材を再びスタジオにセットアップし、コンピューターの画面とにらめっこするのではなく、ツマミを直接ひねりながら即興的かつ直感的なプロセスで楽曲を構築していく。それはまるで、彼らがまだ無名だった頃の荒削りな初期衝動を取り戻すような儀式だったはずだ。
しかし、ここで鳴っているのは決して単なるノスタルジーではない。制作のアプローチ自体はデビュー当時に戻ったかのような荒々しい勢いを宿しつつも、最終的な音圧のコントロールやミキシングの解像度は、間違いなく2019年の最新水準で完璧に仕上げられている。
結果としてこの作品は、過去の熱狂と現在の洗練をシームレスにブリッジする「原点回帰のアルバム」でありながら、同時にフロアの熱狂を予感させ、未来のレイヴを力強く提示する傑作となった。
立ち位置としては、まさにプロディジーとアンダーワールドのちょうど中間に位置するような、極めてクレバーで肉体的なアティチュードなのだ。
問答無用で腰がクネる、フロア直撃のアシッド・アンセム
このアルバム、とにかくめちゃくちゃに踊れる。理屈抜きで、問答無用に腰がクネってしまうのだ。オープニングを飾る「Eve of Destruction」からして最高だ。
ノルウェー出身のシンガー・ソングライターであるオーロラと、日本のヒップホップ・ユニットゆるふわギャングのラッパーNeneをゲストに迎え、重低音が唸る極太のブレイクビーツに切れ味鋭いシンセサイザーが縦横無尽に重なり合う。初っ端から「俺たちは本気だぞ」と戦闘態勢を宣言するような、圧倒的なテンションの高さである。
続く「Bango」や、先行シングルとしても話題を呼んだ「MAH」なんて、ローランドTB-303のアシッド・ベースが脳みそを溶かすように蠢き、断片化された声のサンプルが呪文のように反復する、モロに90年代の違法レイヴ・パーティーを彷彿とさせる過激なトラックだ。
多幸感に溢れた「Got to Keep On」も、文句なしの強烈なダンスアンセムとしてフロアを確実に爆発させる破壊力を持っている。
もちろん、ただアッパーなだけではない。どこかRIZAPのCMを思わせるような不穏でヘヴィなイントロから始まる「Gravity Drops」や、彼らが得意とするサイケデリックでアンビエントな小品「Catching Me Up」など、ふっと肩の力が抜けたようなバリエーション豊かな楽曲もしっかりと配置。大御所ならではの憎らしいほどの余裕と懐の深さが感じられる。
世代を繋ぎ、野外の夜空へ放たれるダンス・ミュージック
このアルバムは、かつての栄光にすがるだけの単なる90年代的回顧的なベテランの新作には陥っていない。
フロア直撃のフィジカルな強さを持ちながら、その時代の野蛮な熱気を現代の研ぎ澄まされた感性で見事に再解釈し、リアルタイムで90年代を知らない若い世代のリスナーの身体にも直接的に訴えかける、圧巻のサウンド・プロダクションが構築されている。
イギリスのガーディアン紙が本作を評して「90年代のレイヴ精神を2019年の文脈で蘇らせたアルバム」と絶賛したのは、まさしくその通り、的を射た表現だ。
この『No Geography』は、見事にグラミー賞の最優秀ダンス/エレクトロニック・アルバム賞を受賞するという快挙を成し遂げた。
90年代UKレイヴの泥臭いルーツを鮮烈な形で更新した本作は、当時を懐かしむ僕たちのようなオールドファンと、新しい刺激を求める若いリスナーとを強力に繋ぐ架け橋の役割を見事に果たしたのだ。
夏の苗場のような野外フェスの広大な空間で、このバキバキに仕上がった音のシャワーを全身で浴びて踊り狂うときの、あの細胞が粟立つような快感。
四半世紀という長い年月にわたり、移り変わりの激しいエレクトロニック・ダンス・ミュージックの最前線に立ち続ける彼らが、今なお誰よりもフレッシュであり続けている理由は、まさにこの「身体を動かすことへの絶対的な信頼」にあるのだ。
- アーティスト/ケミカル・ブラザーズ
- 発売年/2019
- レーベル/ヴァージン・レコード
- ジャンル/エレクトロニック、テクノ
- プロデューサー/トム・ローランズ、エド・シモンズ
- 1. Eve of Destruction (feat. Aurora & Nene)
- 2. Bango
- 3. No Geography
- 4. Got to Keep On
- 5. Gravity Drops
- 6. The Universe Sent Me (feat. Aurora)
- 7. We've Got to Try
- 8. Free Yourself
- 9. MAH
- 10. Catching Me Up
- 11. Goodbye
- Exit Planet Dust(1995年)
- Dig Your Own Hole(1997年)
- Surrender(1999年)
- Come with Us(2002年)
- Push the Button(2005年)
- We Are the Night(2007年)
- Further(2010年)
- Born in the Echoes(2015年)
- No Geography(2019年)
- For That Beautiful Feeling(2023年)
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