『Space 1.8』(2021年/ナラ・シネフロ)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『Space 1.8』(2021年)は、カリブ海にルーツを持つベルギー出身のマルチ奏者ナラ・シネフロが、名門Warp Recordsから発表し、世界中の音楽批評家から「21世紀のスピリチュアル・ジャズ」と絶賛された衝撃のデビュー・アルバム。ロンドンの新世代ジャズ・シーンの精鋭たちを迎え、シネフロ自らが奏でるハープの優美な音色と、モジュラー・シンセサイザーによる有機的な電子音が、数学的な精密さと深い精神性を伴って交錯。ヌバイア・ガルシア(サックス)やシャーリー・テテ(ギター)、ジェームズ・モリソン(サックス)といった現代ジャズ界の重要人物たちが、シネフロが設計した空間(Space)の中で、瞑想的かつ濃密なアンサンブルを繰り広げる。
- 2021年Pitchfork:年間ベストアルバム第24位、Best New Music
癒しと瞑想が織りなす音の宇宙
ベルギー出身の若きミュージシャン、ナラ・シネフロが紡ぎ出す音楽を聴いていると、まるで自分の心拍数がゆっくりと整えられ、細胞の隅々まで澄んだ水が浸透していくような不思議な感覚に陥る。
彼女はカリブ海にルーツを持ち、母親がクラシックピアノの教師、父親がジャズサックス奏者という、まさに音楽のエリートとも呼べる環境で育った。
幼少期からごく自然に多様な音楽と触れ合ってきた彼女だが、もともとは生化学者を目指して勉学に励んでいたというから人生はわからない。試験管と顕微鏡の世界から一転、人生の決定的な伴侶となるハープに出会ったことで、彼女の運命は大きく旋回することになる。
名門バークリー音楽大学に進学した彼女は、そこで音楽の基礎を学ぶものの、サウンドエンジニアリングや音響そのものへの興味を深めるため、わずか1年で退学という道を選ぶ。
アカデミックな環境にとどまることなく、独学を含めて徹底的に実践的な音の教養を身につけていったのだ。その後、彼女はジャズの新たな震源地として世界中から熱い視線を浴びていたロンドンへと拠点を移す。
そこで彼女は、シャバカ・ハッチングスやヌビア・ガルシアといった、サウス・ロンドンの先鋭的なジャズ・シーンを牽引するキーパーソンたちと深い交流を持つようになる。
熱気あふれるジャズ・インプロヴィゼーション・コレクティブであるSteam Downのステージに定期的に出演するようになったシネフロの演奏は、瞬く間にロンドンの耳の肥えたオーディエンスたちの評判を呼んだ。
この現場でのセッションを通じて、彼女は単なるハープ奏者としての枠を超え、空間全体を音で支配するような独自のプレイスタイルを確立していく。
さらにはロンドン・コンテンポラリー・オーケストラの芸術監督であるロバート・エイムスとの共演なども経験し、クラシックと現代ジャズの境界線を軽やかに飛び越えていった。
そして彼女はついに、圧倒的な完成度を誇る念願のデビュー・アルバム『Space 1.8』(2021年)を世に送り出すことになる。
432Hzの周波数がもたらす深い自己治癒のプロセス
彼女はイギリスのGuardian紙のインタビューにおいて、自分にとって録音という行為は深く医薬的であり、当時の自分の身体がどうしても必要としていたものだったと語っている。
さらに彼女は、外界のどこにもセルフケアのための安全な場所がないと感じていたため、自分自身を癒すのに役立つ独自の音の世界を自らの手で作り出したかったと明かしている。
なるほど、確かにこの作品の芯には、音楽とメディテーション(瞑想)の深い結びつきが存在している。単なるリラクゼーション音楽や雰囲気だけのBGMとは根本的に次元が違うのだ。
ある記事によれば、彼女は自宅スタジオの機材をすべて432Hzにチューニングし直して制作に臨んだという。一般的な楽器のチューニング基準である440Hzからわずかに周波数を下げたこの432Hzという音程は、リスナーの心身に穏やかさをもたらし、深い瞑想やリラックス効果を劇的に高めるといわれている。
シネフロは生化学者を目指していた時期の知識や、サウンドエンジニアとしての音響学的な視点を総動員して、このアルバムをアーティストと聴き手の両方が深く潜り込めるメディテーション・ツールとして機能するように設計している。
サウンドデザインそのものが徹頭徹尾、瞑想的だ。スピリチュアルジャズ、アンビエント、エレクトロニカ、そしてニューエイジといった多様なジャンルがごく緩やかに横断し、ペダルハープの生音とモジュラー・シンセサイザーの電子音が織りなす繊細な音の波が、極上のアルカリイオン水のように僕らの疲れた身体を隅々まで浸していくのである。
各トラックのなかで時折フワリと立ち現れるサックスのフレーズは、彼女の父親から受け継いだ深く豊かな音楽的ルーツをはっきりと想起させる。
その音色は決してアンサンブルの中心で自己主張してソロを吹き鳴らすわけではないが、独特のリズム感や息遣いのフレージングが微細なディテールにまでしっかりと息づき、電子音のテクスチャーとシームレスに溶け合っている。
コード進行のセオリーや明確なメロディラインに依存するのではなく、空間の広がりと音の質感を何よりも重視したサウンドスケープは、ため息が出るほどに美しい。
エレクトロニカとジャズのシームレスな融解
アナログ楽器特有のふくよかな温かみをしっかりと残しながらも、現代的なクリアネスと静寂を併せ持ったこの『Space 1.8』は、それぞれのトラックがまるで異なる惑星の風景を描写しているかのような錯覚をリスナーに抱かせる。タイトルに冠されたスペースという言葉の通り、そこには果てしなく広がる内なる無限の宇宙が存在しているのだ。
そして、このアルバムを語る上でもうひとつ重要な事実がある。本作は伝統的な由緒正しいジャズ・レーベルからではなく、エレクトロニックミュージックや実験音楽の最高峰として君臨する名門WARPレコードからリリースされている点だ。
1989年の設立以来、WARPレコードはエイフェックス・ツイン、ボーズ・オブ・カナダ、オウテカ、そしてフライング・ロータスといった規格外の革新的アーティストたちを次々と輩出し、既存のジャンルを破壊しながら新しいサウンドの探求と表現に特化してきたレーベル。
アコースティックなハープを主軸に据えた静謐なジャズ・アンビエント作品が、このエッジの効いたレーベルから堂々とリリースされたという事実そのものが、シネフロの音楽がいかにジャンル横断的であり、かつ音響的な先鋭性に満ちているかという強力な証左と言えるだろう。
激しいビートや過剰な情報量でリスナーを圧倒する音楽が溢れ返る現代において、ナラ・シネフロが提示した音の空白はあまりにも尊い。彼女は自らの手で生み出した音の宇宙を通じて、傷ついた自分自身を癒し、同時に我々リスナーにも静かな避難所を提供してくれた。
目を閉じてこのアルバムに身を委ねるだけで、日常のノイズは遠ざかり、心の中に安全な静寂が訪れる。これほどまでに優しく、そして力強い音楽体験はそう滅多に出会えるものじゃない!
参考文献・出典
- Nala Sinephro: ‘I don’t want to be a vessel for other people’s output’ (The Guardian)
- Nala Sinephro: Space 1.8 Review (Pitchfork)
- Nala Sinephro – Space 1.8 (Warp Records)
- Nala Sinephro’s ‘Space 1.8’ is a Beautifully Meditative Jazz-Ambient Fusion (Rolling Stone)
- ロンドンの新たな才能、ナラ・シネフロが放つ「21世紀のスピリチュアル・ジャズ」 (Real Sound)
- 1. Space 1
- 2. Space 2
- 3. Space 3
- 4. Space 4
- 5. Space 5
- 6. Space 6
- 7. Space 7
- 8. Space 8
- Space 1.8(2021年)
- Endlessness(2024年)
![Space 1.8/ナラ・シネフロ[CD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/611Glt2YM4L._AC_SL1000_-e1754965659479.jpg)
![Source/ヌビア・ガルシア[CD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81C2AYNhcgL._AC_SL1400_-e1754976586834.jpg)