2025/11/16

『Untourable Album』(2021)徹底解説|隔離と内省が生んだ、静かなダンスミュージック

『Untourable Album』(2021年/メン・アイ・トラスト)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー

10段階評価
6
OKAY

概要

『Untourable Album』(2021年)は、カナダ・ケベック州を拠点とするメン・アイ・トラスト(Men I Trust)が、ロックダウン下でツアーを前提とせずに制作したアルバム。全13曲・36分という構成で、ジェシー・キャロンとドラゴス・キリアックによる宅録環境で録音され、エマニュエル・プルーが全曲を歌唱するリリース前には制作メンバーの負傷により公開が延期され、その後に行われた“Untourable Tour”が北米と欧州を巡った。各曲は短尺かつ反復的で、ベースとシンセが低音域を抑え、歌声は空気越しに聴こえる質感で収録されている。ライブ再現を想定しない音像設計が採られ、密室性と移動性が併存する点が特徴。

受賞歴
  • 2021年Pitchfork:年間ベストアルバム第44位
  • 2021年Rough Trade:年間ベストアルバム第32位
目次

密室の親密なビート

『Untourable Album』(2021年)という奇妙で自虐的なタイトルには、当時のロックダウン期という特殊な時代空気がそのまま真空パックのように封じ込められている。

「どうせツアーに出られないのだから」という諦念と前提のもとで、カナダのモントリオールを拠点とするメン・アイ・トラストの3人は、曲を書き、音を録り、ミックスし、完全に閉じた世界のなかでこのアルバムを完成させた。

ところが運命というのは皮肉なもので、キーボードでありプロデューサーでもあるドラゴス・キリアックの怪我によってリリースが遅れてしまった結果、世の中の状況はむしろパンデミックの解禁へと大きく傾いていく。

結果的に彼らは、ツアーできないはずのこの作品を引っ提げて、自ら「Untourable Tour(ツアーできないツアー)」と名づけた大規模なツアーで北米とヨーロッパを駆け巡ることになってしまった。

ツアーできないはずの密室の作品が、むしろ熱狂的なライブの起点になってしまったという痛快なパラドックス。隔離された日々の深い内省と、その隙間にそっと忍び込んでくるかすかな希望の光。その絶妙な揺れ幅が、全13曲、わずか36分という短いランタイムのなかに、驚くほど静かに、そして濃密に沈殿している。

『Oncle Jazz』からの反転──空間を絞り込むための引き算

彼らが世界的なブレイクを果たすきっかけとなった前作『Oncle Jazz』(2019年)は、まるで生活そのものを時間の器として丸ごと閉じ込めたような、終わりなき架空のラジオ番組のようなスケール感を持った大作だった。

あらゆる曲が水平方向にゆったりと連なり、ボーカルのエマニュエル・プルーのささやくような声は、「そこに存在すること」そのものが意味になるような、ある種の魔法の地点へと到達していたのだ。

しかし今回の『Untourable Album』では、その開かれた方向性がさらに極限まで内側へと折り畳まれている。曲数こそ13曲と多めだが一つひとつの曲尺は短く、アルバム全体の構造はギュッと凝縮され、長い時間の揺らぎよりも「瞬間そのものの濃度」がはっきりと前景化している。

ジェシー・キャロンの弾くベースは「どの音を鳴らすか」というフレーズの選択ではなく、「一つの音をどう深く揺らすか」という響きのテクスチャーに完全に集中している。

ドラゴスのシンセサイザーも、空間を派手に塗りつぶすためではなく、むしろ空間そのものをキュッと絞り込むために鳴らされている。前作までのもっていた「自分の部屋で心地よく踊る感覚」は、ここではさらに体温を一段階下げた「瞑想」に近いものになっている。

制作にあたって、彼らは明確にライブで再現されることを前提にしない音楽というルールを掲げていた。エマはボーカルを前へ押し出して歌い上げることを避け、あくまで空気越しに微かに聴こえる声の質感だけを残すような繊細な録り方をしている。

ジェシーはベースからサブ帯域をあえてバッサリと削り落とし、ブーミーな太さではなく硬質で引き締まった輪郭だけを残すEQ処理を採用した。そしてドラゴスも、過去に多用していた音の重ね録りを封印し、DX系のデジタル・シンセや淡いブラス・サウンドを「空間の湿度を決めるための一音」としてストイックに配置している。

ミックスダウンの段階でも、全体の音圧は昨今のポップスの潮流に逆らうように意図的に低く保たれている。これは、リスナー自身が手元でボリュームを上げることで初めて音楽が完成するという、極めて親密な設計。

外の巨大な世界へ向けて届けるための派手な音作りではなく、密室のひそやかな体温を絶対に損なわないための音作り。それこそが、本作の全工程に貫かれている揺るぎない哲学である。

“瞬間の濃度”を抽出する楽曲たち

アルバムは『Organon』という静謐なトラックから幕を開ける。旋律は最低限に抑えられ、コードはかすかに震えるだけ。

ここで鳴っているビートは躍動というより脈拍の模倣であり、身体が揺れるというよりは、体内で何かが微細に動き始めるような不思議な感覚を喚起する。

メン・アイ・トラストの音楽は、もはや外部の開かれた空間では成立しない。そんな事実を冒頭から静かに宣言するような、マニフェスト的な一曲だ。

続く『Always Lone』では、逆に高域の残響を強く強調し、空間そのものを薄いベールのように伸ばす音像が特徴的だ。エマの声は歌詞のメッセージを伝えるというよりも、呼気のかすかな温度を空間に残すために配置されており、楽曲の半分以上が空白と反射音によってのみ成立している。かつての彼らの音楽に存在した柔らかな肉感はここでほぼ解体され、残響だけが身体の代わりを務めて浮遊している。

『Before Dawn』と『Serenade of Water』の2曲は、このアルバムにおける内省の二枚羽根と呼べる重要な存在。前者はJ・ディラ以降のローファイ・ヒップホップの美学を援用しながら、メロディをまるで睡眠導入剤のような液体的な状態へと静かに溶かしていく。

後者は逆に、輪郭だけの和声で構築されたトラックが、聴き手の身体からフワッと重量を奪い去っていく。どちらの曲も、外に向かって派手に踊ることとは逆の方向に振れていながら、なぜか聴き手に身体を小さく揺らすことだけは要求してくるから面白い。

5曲目の『Tree Among Shrubs』は、アルバム中もっともモータリックで推進力のある楽曲だ。ベースは規則正しい歩行のテンポを刻み続け、楽器編成は驚くほど少ないのに前へ進んでいく身体の感覚だけがはっきりと残る。

これは「ビートを外側に向かって押し出さず、ひたすら内部へ向けて送り込み続ける」という本作のサウンド哲学を、もっとも明快でポップな形で示している。

そして、大名曲『Numb』だ。本作でもっともメロディアスに「歌」を聴かせる曲でありながら、その歌声は不思議なほど意味の重さを保証しない。

綺麗な輪郭を保ちながら耳の奥へと静かに沈んでいくように配置され、ビートは極限まで薄く、ハーモニーも必要最小限に削ぎ落とされている。それでもポップソングとして完璧に成立するのは、声というものが意味を伝える記号ではなく、存在の密度そのものとして機能しているからだ。

前作で確立された「ただそこで歌うだけで成立するポップ」が、ここでは完全な極小化、あるいは純化を迎えている。

ヘッドフォンの中にだけ存在するフロア

『Men I Trust』(2014年)や『Headroom』(2015年)で萌芽したベース主導の親密なグルーヴ、そして『Oncle Jazz』で確立された「生活=時間軸」のポップ・ミュージックは、この『Untourable Album』において、ついに極限まで収縮することに成功した。

反復はいつしか祈りのような響きへと変わり、声は情報ではなく存在そのものへと変質する。この見事な収斂は、バンドの音響史が「外部へ向かって開いていくダンス」から、「内部に生成される微細な呼吸運動」へと変化してきた美しき軌跡そのものである。

タイトルに掲げられた「Untourable(ツアーできない)」という言葉は、単なるコロナ禍の状況反映や自虐ジョークなどではない。それはメン・アイ・トラストという稀有なバンドが長年かけて練り上げてきた、引き算の美学の最終的な結晶なのだ。

巨大なサウンドシステムを持つクラブを一切必要としないフロア。リスナーのヘッドフォン内部という超パーソナルな空間にだけ成立する親密な身体性。そのすべてが、この36分の作品では完璧に達成されている。

そして何より興味深く、痛快なのは、そんな極限まで閉じた音楽が、結果的に世界規模の巨大なツアーへと回収され、数万人の観客の前で鳴らされてしまったという事実だ。

身体のエネルギーを外へ解放しないまま、熱狂する都市を巡っていく。その美しい矛盾こそが、2020年代の新しいダンスミュージックが辿り着いた、最もスリリングな風景なのかもしれない。

メン・アイ・トラストはツアーできない音楽を作ったのではない。ツアーという概念そのものを、自分たちの内なる密室へと完全に取り込んでしまう、恐るべき音楽を完成させたのだ。

アルバム情報
プレイリスト
  1. 1. Organon
  2. 2. Oh Dove
  3. 3. Sugar
  4. 4. Sorbitol
  5. 5. Tree Among Shrubs
  6. 6. Before Dawn
  7. 7. Serenade of Water
  8. 8. 5Am Waltz
  9. 9. Always Lone
  10. 10. Ante Meridiem
  11. 11. Lifelong Song
  12. 12. Shoulders
  13. 13. Beluga
  14. 14. A Cycle (2021)
  15. 15. Black Hole Era
メン・アイ・トラスト アルバムレビュー