『Essex Honey』──記憶と喪失をテーマにした、ジャンル横断型サウンドスケープ
ブラッド・オレンジ(Blood Orange)ことデヴ・ハインズが2025年に発表した最新作『Essex Honey』は、母の死と故郷エセックスの記憶を出発点にした、もっともパーソナルで実験的なアルバムである。アンビエント的手法とソウル/ジャズの身体性を交差させ、記憶と喪失を音響的に刻印することで、個人的体験を普遍的な共感へと昇華した。
喪失と記憶を刻むサウンドデザイン
『Essex Honey』は、単なるスタジオ・アルバムというよりも、デヴ・ハインズの人生史を音響的に記録し直す試み、と定義した方が良いかもしれない。
2023年に母を亡くした経験がその直接的な契機となり、故郷イギリス・エセックスでの記憶を掘り下げるこの作品は、喪失と再生をめぐる個人的な探究を結晶化させている。その意味で『Essex Honey』は、彼のキャリアにおいてもっとも内省的で、かつ実験的な作品だといえるだろう。
本作の中核を成すのは、母と過ごした最後のクリスマスの録音だ。その音素材は過度に加工されず、音響空間にほのかなノイズとして配置されている。
こうした「記憶の断片」を作品に刻み込む手法は、ブライアン・イーノのアンビエントや、ティム・ヘッカーが展開してきた記録音と加工音響の融合を想起させる。
しかしデヴ・ハインズのアプローチには、冷徹な実験性よりもむしろ親密さが際立つ。音は記憶を呼び覚ます装置として働き、聴取者にとってもプライヴェートな記憶を呼び起こすきっかけとなる。
音響が感情そのものに変換される瞬間、私的な追憶が普遍的な響きへと昇華する。この「私的でありながら普遍的」という二重性が、『Essex Honey』を特別な作品たらしめている。
過去作との対比──公から私へ
デヴ・ハインズはこれまでもジャンルを横断し、複数の文脈を接合させることで独自の地平を切り開いてきた。
80年代シンセポップとR&Bを再解釈し、ポップとアンダーグラウンドを橋渡しする『Cupid Deluxe』(2013)。シエラレオネ的ルーツと黒人文化の政治性を前景化し、断片的コラージュによってコミュニティの声を響かせた『Freetown Sound』(2016)。
クィア体験や孤独を中心に据え、メランコリックなソウルの形式を更新した『Negro Swan』(2018)。そして、ジャンル横断的な断片を寄せ集めた“ミックステープ”的性格を持ち、自由度の高い遊びを見せた『Angel’s Pulse』(2019)。
これらが「公的」なテーマ、すなわちコミュニティや文化全体にかかわる主題を扱っていたのに対し、『Essex Honey』は明確に「私的」な作品である。他者を代弁するのではなく、自分自身の記憶を再構築することに力点が置かれているのだ。
エセックスという土地の象徴性
アルバム・タイトルに冠された「Essex」は単なる地名ではない。エセックスは、イギリス音楽史において労働者階級的アイデンティティと結びつけられる地域であり、クラブ/レイヴ文化の重要な拠点としても知られてきた。ブラーのデーモン・アルバーンもエセックス出身であり、ブリットポップ期には「エセックス・ボーイ」というステレオタイプが消費された。
その土地にあえて立ち戻ることは、デヴ・ハインズにとってアイデンティティの再定義にほかならない。ニューヨークやロサンゼルスで国際的評価を確立してきた彼が「エセックス」というローカルな記憶を引き寄せることで、場所と記憶と音楽が絡み合う新たなサウンドスケープが生み出されている。
記憶の音楽的結晶
いくつかの楽曲では、本作のコンセプトが象徴的に体現されている。M-5「Mind Load」では、Lordeがエリオット・スミスのフレーズをインターポレートする仕掛けが組み込まれ、追憶の層が増幅される。彼の歌詞を引用することで、90年代オルタナティブの影が現代の音響空間に立ち現れるのだ。
M-9「Westerberg」は、リプレイスメンツへの明快なオマージュ。ポストパンクからインディー・ロックへの橋渡しを行ったバンドの記憶を呼び出すことで、個人史とロック史が交錯する。
M-11「The Train (King’s Cross)」は、移動を記憶の喚起と重ね合わせた楽曲であり、駅名という具体的地名が音楽的モチーフへと昇華している。列車のリズムが反復するサウンドは、人生の通過点を象徴するかのように響く。
『Essex Honey』は同時代のUK音楽とも強く共鳴している。James Blakeのポスト・ダブステップにおける感情の断片化、The xxの親密な空間処理、フローティング・ポインツが示すジャズとエレクトロニカの結合。
さらには、テルザやDean Blunt、クラインといったアンダーグラウンドのアーティストたちが展開してきた「親密さと断片性の美学」とも呼応する。
だが、ハインズが独自なのは、そこにソウルとジャズの身体性を取り戻している点である。過度に抽象化された電子音響にとどまらず、肉体的な声と演奏が「記憶」の質感を保証しているのだ。結果として、彼は英国的文脈の中で「記憶の音楽」を再定義した。
もっともパーソナルで、もっとも普遍的な作品
『Essex Honey』は、デヴ・ハインズのキャリアにおける特異点だ。これまでのようにコミュニティや政治性を前面に出すのではなく、あくまで自らの記憶と喪失を起点にしている。にもかかわらず、その音響世界は聴く者の個人的記憶を呼び覚まし、普遍的な共感へと開かれている。
つまり『Essex Honey』は、彼にとってもっともパーソナルな作品であると同時に、もっとも普遍的な問い──「音楽はいかに記憶を媒介しうるか」──を投げかける作品なのだ。エセックスという土地に根ざした私的回想は、やがてUKミュージック・シーンに確固たる痕跡を刻み込んでいる。
- アーティスト/ブラッド・オレンジ
- 発売年/2025年
- レーベル/RCA
- Look at You
- Thinking Clean
- Somewhere in Between
- The Field(feat. ザ・ドゥルッティ・コラム、ターリク・アル・サビール、キャロライン・ポラチェック、ダニエル・シーザー)
- Mind Loaded(feat. キャロライン・ポラチェック、ロード、ムスタファ)
- Vivid Light
- Countryside(feat. エバ・トルキン、リアム・ベンズヴィ、イアン・イザイア)
- The Last of England
- Life(feat. テルザ、シャーロット・ドス・サントス)
- Westerberg(feat. エバ・トルキン、リアム・ベンズヴィ)
- The Train (King’s Cross)” (feat. キャロライン・ポラチェック)
- Scared of It(feat. Brendan Yates、ベン・ワット)
- I Listened(Every Night)
- I Can Go(feat. Mabe Fratti、ムスタファ)
