山形県神町で繰り広げられる、神話的世界にも肉薄した巨大なサーガ
阿部和重は、
描きたいと思う物語を、自分は持っていない。ただ形式へのこだわりがあるだけだ
という趣旨の発言を何度か行っているが、それは阿部自身の個人的資質なのではなく、多分に世代的なもんなのだろう。映画が見せるべき映像を失ったように、あるいは音楽が聴かせるべきメロディーを失ったように、文学はそのはるか昔から語るべき物語を失っていた。
今を生きる語り手たちは、己に巣食う内実を物語に託すのではなく、すでに提出された物語の破片を拾い集めて、その再構築にいそしむんである。
構造を主体とした作品の、僕なりの”決定打”をここで出しておきたかったんですね
と阿部はさるインタビューで語っているが、『シンセミア』(2003年)は、まさにその頑強なまでの「形式へのこだわり」が具現化された作品と言える。舞台となる山形県の神町は、阿部自身の出身地でもある実在の空間だ。
すでに彼の脳内には、歴史、地形など神町に関する精密なデータベースが蓄積されており、そこにセックス、ドラッグ、バイオレンスといった要素を巧妙にねつ造して、新たな物語を提示してみせる。
『起動戦士ガンダム』(1979年〜1980年)や『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年〜1996年)のデータベースにしてアクセスして、自分だけの物語を構築しようとするマニアと同じような手つきで。
東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)風に言えば、神町という現実空間を参照したシミュラークル(ポストモダン社会におけるオリジナルなきコピー)ということになるんだろうが、とにかく多重構造を突き詰めたスケール感は圧倒的としかいいようがない。
まるでRPGゲームのごとく、一人の登場人物にあるフラグがたつと、他の登場人物に特定イベントが発生するというような案配で、全ての伏線が物語内で密接に絡み合い、交差し、収斂していく。
ロリコン警官、悪徳市議、コカイン中毒の主婦、盗撮マニアのレンタルビデオ屋など50名以上にもおよぶ登場人物(しかも誰一人感情移入できない!)が織りなす群衆劇は、原稿用紙にしておよそ1600枚にも及ぶ巨大なサーガ。
比喩的表現を頑なまでに排した、理知的かつ硬質な文体を駆使したその手触りは、神話的世界にも肉薄している。とにかく読んでて疲れることこの上ないが、途中で止めることもできない小説です。
- 著者/阿部和重
- 発売年/2003年
- 出版社/朝日新聞社
最近のコメント