ねじ式/つげ義春

つげ義春コレクション ねじ式/夜が掴む (ちくま文庫)

つげ義春はたぶん、純文学的でもなんでもなくて、徹底的にビンボーなだけだと思う。『無能の人』(1968年)なんぞ、金もないし仕事もさっぱり、ただひたすら悠久の時が流れるのに身を任せている男の、ダメダメ話ではないか。

つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人 (ちくま文庫)

ただその描写が、仙人のごとく達観していただけ。しかし、『ねじ式』はそーゆー次元のお話ではない。頭がクラクラするような、夢うつつ系不条理漫画である。しかし本人に言わせると、「原稿の締めきりが迫り、何も描く材料が無くて困ったので、ヤケクソで描いた」作品らしいが(なんじゃそりゃ)。

多分この作品って、シュールレアリズムの人たちがよくやっていた「オートマティカル・エクリチュール」の実践ではないか。畢竟するに、できるだけ頭を無意識の状態に近付けさせ、思いつく言葉からどんどんイメージを拡散させていく手法である。

「夢判断」や「深層心理」に重きを置いたユング系心理学の副産物とも言えよう。だとすれば、その代表選手であるサルバドール・ダリの一般的なイメージ=「ねじれた時計」が、『ねじ式』における「ねじれた眼医者の看板」と重なるのは偶然ではない。

ならば、この作品から我々はどのようなイメージを抽出できるだろうか。例えば、ファーストシーン。主人公である「ぼく」は、海辺でメクラゲに腕を噛まれ、静脈は切断してしまっている。彼は左腕を押さえながら、ゆっくりと海からあがる。よく見ると、「ぼく」のすぐ上方には巨大な旅客機のシルエットが描かれていることが分かる。

これは単なるコマの空間的な「抜け」として描き込まれたものではない。考えてみれば、この作品には「機関車」や「ボート」、「自動車」といった様々な交通手段が出現する。これは「内」という鬱屈した世界…おそらくつげ義春自身が属している世界…と希望に満ちた夢の世界とを結ぶ「糸」である。

夢に「死」と「性」のイメージが色濃く反映されていることは広く言われていることだが、この作品も例外ではない。ベッタリと張り付けられたセックスのイメージ。ラストの女医との性交シーン(女性は常に崩れた体つきをしている)もそうだが、「きみはこう言いたいのでしょう、イシャはどこだ!」などとスットぼけた事を抜かす政治家ルックなオヤジの横には、何故か天狗のお面がかけられている。

言うまでもなく天狗の鼻は男根のイメージだ。性的なメタファーを「金太郎飴」、「天狗」といった昭和的・旧日本的なデコレーションでまぶしながら、物語は超自然的に展開する。

最近読み返して気付いたのだが、この作品には夜のシーンがない。すべては日中の…まるで白日夢のような…けだるいイメージに満ちている。恐ろしいほどの静寂、生きている感じがしない漁村の人々。漁村というキーワード自体、過疎化が進んだ“死”のイメージを増幅させる。

この作品を読むたび、たちのぼる陽炎にも似た感覚を感じない訳にはいかない。その残像はゆらゆらと、僕の脳内を反芻する。

DATA
  • 著者/つげ義春
  • 発売年/1968年
  • 出版社/秋田書店

アーカイブ

メタ情報

最近の投稿

最近のコメント

カテゴリー