暗い時代のアンチヒーロー。ちばてつやと梶原一騎の異質の才能がタッグを組んだ、“奇跡”の漫画
『あしたのジョー』(1968年〜1973年)は、団塊の世代にとって特別な感慨があるようだ。よど号ハイジャック事件の犯人たちは、「我々はあしたのジョーである」と宣言し、力石が漫画で死んだ時には、寺山修司が発起人となって告別式を行った。
一冊のマンガを徹底的に語り合う『BSマンガ夜話』(1996年〜2009年)でこの作品が取り上げられた時は、明らかに平均年齢50歳のレギュラー陣のテンションがいつもと違い、夏目房之介の『夏目のメ』のコーナーも、尋常ならざる気合いが入っていた。
ゲストの夢枕貘にいたっては、「このマンガの続きを読むために、生きられる時代があった」と断言。ちばてつや全集版『あしたのジョー』の最終巻には、夢枕貘のアツい解説が掲載されている。
『あしたのジョー』を読むだけに、生きてゆける時代があった。他に、生きる理由が全て喪失してしまったとしても、『あしたのジョー』の続きを読むためにだけ、次の一週間を自分は生きてゆけるだろうと思ったことがある。
『あしたのジョー』が連載されていた頃は、まだ学生運動が賑やかな時代で、ぼくらは、様々な場所で、「何のために生きるのか」そういう問いを、他者から、あるいは自ら問いかけられた。あまりに抽象的で、答のない問いであった。唯一具体的だったものが、“来週のジョーを読みたい”であった。
これほど情熱をもって愛された漫画というのは過去にも例がないし、これからも生まれにくいだろう。ちばてつやと梶原一騎(高森朝雄)という異質の才能がタッグを組み、スパークしたこの作品には、ある種の“奇跡”が存在する。
ちばてつやはキャラクターをじっくりと掘り下げ、彼等が「動き出す」までジッと待つ。だから彼の作品はもどかしいくらいにドラマの先が見えない。『のたり松太郎』(1973年〜1998年)や『あした天気になあれ』(1981年〜1991年)を読めば、いかにドラマとしての進行がモッサリしているかが分かるだろう。
それに対して梶原一騎は大袈裟なくらいのハッタリズム。血の滲むような努力、報われない無垢な愛、時代がかったストーリー展開には「マジっすか」とツッコミをいれたくなること必至である。
『愛と誠』(1973年〜1976年)や『巨人の星』(1966年〜1971年)をシラフで君は読めるか?両極端な資質の持ち主が、お互いの長所を高めあい、短所を相殺し合って、このような大傑作が誕生したのである。
矢吹丈は暗い時代のアンチヒーローだった。反体制の体現者だった。この作品がゴミ捨て場のようなドヤ街で幕を開けるのは、実に暗示的。彼は「闘う」ためにリングにあがる。そして、ジョーの生き方は潔くて鮮烈だ。
彼の背中には家族も宗教も国家もない。死すら恐れない。あまりにもストイックで孤独な生き方に、彼に好意を抱いていた紀子ちゃんも、「ついていけそうもない」と別離宣言をする。彼女が最終的に選んだのは、ボクシングよりも家庭に安らぎを求めたマンモス西だった。
だからこそ、ジョーは白木葉子の告白も受け入れることが出来ない。彼の精一杯の愛情表現は、ホセ戦の後にグラブを彼女に渡し、「あんたに…もらってほしいんだ…」と言わせるのみ。
全てはボクシングのために。真っ白な灰になるために。生きる目的すら見失いがちな時代にあって、ジョーの生き方に多少なりとも共感を抱かない人間はいないだろう。矢吹丈は人生を疾走した。
最後に、あのあまりにも有名なラストシーンについて言及しておこう。彼は眠っているのか、それとも死んだのか。『BSマンガ夜話』での、夏目房之介による解釈が実に感動的だったので、引用させて頂きます。
生きているのか死んでいるのか、それは重要ではない。問題なのは、ジョーは未来を見据えているということだ。最後のカット、ジョーは左を向いている。漫画というものは右から左へと読み進めていくものなのだから、左を向いているということは未来を、明日を見据えているということなのだ。
- 著者/高森朝雄、ちばてつや
- 発表年/1968年〜1973年
- 掲載誌/週刊少年マガジン
- 出版社/講談社
- 巻数/全20巻
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