目を閉じて抱いて/内田春菊

『目を閉じて抱いて』“勝てない男たち”と、内田春菊の性の神話

『目を閉じて抱いて』(1993年)は、内田春菊が男女の境界を越える愛と欲望を描いた代表作。平凡なサラリーマン・周が、ニューハーフのダンサー・花房に恋をしたことから、彼の人生は大きく揺らぎ始める。男でも女でもない花房をめぐり、愛・嫉妬・破壊が交錯し、やがて「性」と「人間」の定義そのものが崩れていく。

内田春菊という現象

内田春菊という作家を論じるとき、我々はまず「女性作家」というラベルを慎重に外さねばならない。彼女は単に“女性の代弁者”ではなく、女性という肉体の制度をそのまま言語化する作家である。『目を閉じて抱いて』(1993年)はその最たる例だ。

平凡なサラリーマン・周が、ニューハーフのダンサー・花房に恋をする。この単純な構図が、ジェンダーという名の生物的・社会的境界線を次々に撹乱していく。

花房は女であり男であり、その両義性ゆえに物語全体を引力として支配する。周も樹里も、花房という存在を中心に軌道を歪められる。ここでは“性の主体”が常に女性側にある。

男性のロジックは無力化され、言語は肉体の震動に従属する。内田春菊はこの構造を、「書く」ことではなく「出産する」こととして遂行する。彼女の筆致は理屈ではなく内臓から発され、知性よりも生理に近い。

ゆえに彼女の作品を論理的に分析しようとすれば、必ず破綻をきたす。内田春菊は理屈ではなく代謝で物語を紡ぐのだ。

性と権力──「産むこと」に勝てない男たち

村上龍が『EV CAFE』(1985年)で語ったように、「男はどんなに努力しても“女が子どもを産む”という行為に勝てない」。この言葉は内田春菊の文学を読むための最も鋭利な鍵である。

『目を閉じて抱いて』における花房は、まさに“産むこと”の象徴である。彼女は生殖の意味で子を産むことはないが、人間関係そのものを産み出す力を持っている。

周と樹里、男と女、欲望と倫理──すべてを彼女は内包し、攪拌し、新たな形で出産する。その中心にあるのは破壊ではなく、生成だ。

一方で男性たちは、花房の周囲で翻弄され続ける。彼らは花房を「理解しよう」とするが、理解の回路は常に遮断される。内田春菊の世界では、男性の知性は女性の生理に敗北する。

この構図は、男女の戦いではなく、言語と肉体の戦いである。花房という存在は、男性中心社会の論理を笑い飛ばすための最終兵器であり、同時にその笑いに取り憑かれた哀しい神話的存在でもある。

花房という神話──ジェンダーの中間地帯に立つ者

花房の魅力は、その両性具有的存在にある。彼/彼女は男でも女でもない。あるいはそのどちらでもありうる。ここに、内田春菊が描こうとした「性の中間地帯」がある。

90年代初頭、日本社会はまだジェンダー・ポリティクスという言葉に慣れていなかった。だが『目を閉じて抱いて』は、男女二元論を完全に無効化する。花房は性の境界を軽やかに飛び越え、同時に「結婚=幸福」という当時の価値観を粉砕してみせる。

樹里は「普通の結婚」を夢見る。だが内田はその“普通”をあざ笑う。花房が掲げるのは、性愛と生存を同一線上で肯定する自由であり、倫理や社会規範に対する挑発である。花房の「好きな人が元気でいれば、それでいい」という台詞は、自己犠牲ではなく存在の肯定そのものとして響く。

男性がこの台詞にKOされるのは当然だ。そこに宿るのは、母性でも愛情でもない。もっと根源的な、生命そのものの力だ。男たちが“勝てない”のは、花房が単なるキャラクターではなく、性の神話的原型として機能しているからである。

内田春菊のしたたかさ──「自由」と「装置」としての作品

本作に不満を抱く読者も少なくない。物語は後半で迷走し、高柳が七臣を殺害するあたりから破綻を始める。結末は混乱のまま、読者に投げ出されるようにして終わる。だがこの破綻こそ、内田春菊という作家の戦略的無責任なのかもしれない。

彼女は一貫して、物語を「女性としての自由宣言」の装置として使用してきた。『ファザーファッカー』『南くんの恋人』などにも共通するように、登場人物の破綻は、常に作家の“自由”を拡張するための代償として描かれる。

『目を閉じて抱いて』もまた、物語の完成度よりも、作家の生理的実感が優先されている。男性読者がこの作品に違和感や拒否反応を覚えるのは当然だ。なぜならこれは、男性的物語構築への挑発だからだ。内田春菊は、物語そのものを“女の身体”として描く。そのしたたかさに、男はどうしたって勝てない。

結語──“勝てない”という敗北の快楽

『目を閉じて抱いて』を読み終えたとき、多くの男性読者が抱く感想はただひとつ――「こりゃ勝てないな」。

この敗北感は、単なる性的倒錯や恋愛劇の衝撃ではない。もっと根源的な、“女という生き物に対する敗北”である。『あしたのジョー』の丹下段平が叱咤激励しようが、『ドラゴンボール』の孫悟空が覚醒しようが、花房の一言に勝るカタルシスはない。

「好きな人が元気でいれば、それでいい」──この台詞の前では、すべての男のロジックは沈黙する。

内田春菊は、男性的ヒロイズムを解体するために“性”を描く。男は女に敗北し、読者は作家に敗北する。だがその敗北は、どこか心地よい。なぜなら、そこにこそ文学の自由が宿るからだ。

『目を閉じて抱いて』とは、恋愛マンガの皮をかぶったジェンダー批評であり、男という制度への宣戦布告である。そしてその戦争の結末は、最初から決まっている。

勝てない。だからこそ読むしかない。

DATA
  • 著者/内田春菊
  • 発表年/1994年〜2000年
  • 掲載誌/FEEL YOUNG
  • 出版社/祥伝社