『Music Has The Right To Children』──記憶と未来をねじ曲げる、幻視のエレクトロニカ
『Music Has The Right To Children』(1998年)は、スコットランドのデュオ、ボーズ・オブ・カナダ(Boards of Canada)が放ったデビュー・アルバム。教育番組の断片やテープ劣化音を素材に、記憶と未来を交錯させるサウンドを構築した。曖昧なリズム、崩れたテープ質感、子供の声が織りなす音響詩は、60年代サイケデリックの幻覚性を90年代の電子音で更新する。時間の感覚が揺らぐリスニング体験である。
幻覚の形式──時間の錯視としてのサウンド
初めてこのジャケットを目にしたとき、多くの人が60年代サイケデリックの遺物だと錯覚するだろう。淡く色褪せた写真、逆光の中の人影、そしてどこか幸福の亡霊を想起させる構図。だが、その実態はきわめて現代的で、むしろポスト・デジタルの記憶操作装置である。
ボーズ・オブ・カナダ――スコットランドの兄弟デュオ、マイク・サンディソンとマーカス・イオンが生み出した『Music Has the Right to Children』(1998年)は、記憶・教育・テクノロジーを媒介に「過去と未来の錯綜」を音響として体現した作品だ。
サイケデリック・ロックがドラッグによる幻覚で現実を脱出したのに対し、BoCは劣化したテープ、幼児の声、教育番組の断片という〈文化的残響〉を使って、時間そのものをゆがめる。
このアルバムのリズムは、均整のとれたビートではなく、微細な歪みを孕んでいる。ドラムマシンの拍はわずかに揺れ、テンポは一定のようで不安定。4/4拍子の内側に〈ズレ〉が仕込まれており、聴き手は知らぬ間に時間感覚を奪われる。
リズムは前進しながらも停滞し、同じ地点をぐるぐると旋回する。これによりボーズ・オブ・カナダの音楽は、未来へ進むのではなく、過去を反芻しながら進行する“時間の回廊”となる。こうした構造的な遅延こそが、彼らの音楽の幻覚的作用の正体である。
教育番組の亡霊──記憶の再構築装置としての音
ユニット名ボーズ・オブ・カナダは、カナダ国立映画制作庁が制作したドキュメンタリー番組に因んでいる。彼らの楽曲にしばしば挿入される教育番組の音声断片、子供の数え歌、女性の囁きは、そのオマージュだ。
磁気テープの劣化を模したローファイ処理は、聴覚の奥に“過去を思い出す錯覚”を作り出す。そこでは、音楽は情報ではなく〈記憶の風景〉として鳴る。BoCのサウンドは聴き手の個人的記憶に侵入し、無意識の映像を立ち上げる。
『Music Has the Right to Children』では、伝統的な解決を持たない和声が連続する。コードは中途で止まり、旋律は解放を拒む。モード的な音階、微妙にずらされたピッチ、サイン波と矩形波の交錯が、終わりのない持続を作り出す。
音は常に浮遊しており、明確な始まりも終わりもない。これは、記憶という現象そのものの構造を写し取っている。つまりBoCの音楽は、「思い出す」という行為の内部を可聴化しているのだ。
アルバム中でも特に象徴的なのがM-12「Aquarius」。そこでは子供の笑い声と女性のカウントがループし、男性の「Orange」という声が断片的に差し込まれる。この構成は単なる遊びではない。教育番組的な無垢さの裏に、反復の催眠性が潜む。
数え歌は学習のリズムであると同時に、洗脳のメカニズムでもある。BoCはその二重性を音響化することで、聴き手に“恐怖を伴う懐かしさ”を与える。無邪気な声が反復されるほどに、それは不気味な音へと変質していく。
曖昧な未来──時間の墓標としての音楽
ボーズ・オブ・カナダの音楽が他のIDMアーティストと決定的に異なるのは、ノスタルジーを感傷として消費しない点にある。アナログ的な温もりとデジタル的な冷たさを交配させ、〈過去と未来の境界〉を崩壊させる。
そこには、いま存在していない“もうひとつの時間”が流れている。過去を懐かしむのではなく、〈過去に憧れる未来〉を創造する。『Music Has the Right to Children』はその矛盾を作品全体で成立させた、時間芸術としての傑作だ。
エイフェックス・ツインが不協和の快感を、オウテカが数学的構造を、オービタルがクラブ的共同体を追求したのに対し、BoCは“個人の記憶”を主題化した。
彼らの音楽はダンスの場ではなく、内的なビジョンの中で響く。つまり、音楽が“外界の体験”ではなく、“内面の映像”に変換される。その意味で『Music Has the Right to Children』は、クラブカルチャー以後のIDMが到達した〈リスニングの純化点〉である。
BoCが提示したのは、音楽が時間を超えることではなく、時間そのものを彫刻するという思想だった。彼らの音像は常に過去形でありながら、未来への違和感を孕んでいる。教育、記録、記憶──それらすべてがデジタル時代における“ノスタルジーの亡霊”として再構成される。
『Music Has the Right to Children』は、その亡霊が最も美しく微笑んだ瞬間の記録である。
- アーティスト/ボーズ・オブ・カナダ
- 発売年/1998年
- レーベル/Warp
- Wildlife Analysis
- An Eagle In Your Mind
- The Color of The Fire
- Telephasic Workshop
- Triangles & Rhombuses
- Sixtyten
- Turquoise Hexagon Sun
- Kaini Industries
- Bocuma
- Roygbiv
- Rue The Whirl
- Aquarius
- Olson
- Pete Standing Alone
- Smokes Quantity
- Open The Light
- One Very Important Thought
- Happy Cycling (Bonus Track)
