ストーリーをスライドショー形式でしか語れていない、カット至上主義映画
『アルマゲドン』(1998年)のあまりの酷さに、「今後一切、マイケル・ベイ監督作品は観るまじ!」という鉄の掟を己に課してから、はや十数年。
まるでそんな宣言などなかったかのように、僕は平然と彼が監督を務めた『アイランド』(2005年)をTSUTAYAでレンタルし(しかも半額キャンペーン期間中に!)、大切なフライデーナイトをこの作品の鑑賞に充てたのであった。この約束不履行ぶりは、昨今の政治家にも通じるものがあります。
結論から言うと、『アルマゲドン』ほどではないにしろ、やっぱり『アイランド』も如何ともしがたい出来だった。観賞後、僕は「今後一切マイケル・ベイ監督作品は観るまじ!」という決心を再び固めたのである。
別にその理由は、「脚本がご都合主義すぎる!」とか、「ベッドシーンでスカーレット・ヨハンソンの豊乳を映さないのは、どういうことやねん!」とか、「スティーブ・ブシェミをあっさり殺すな!」とかにあるのではない。その理由は、もっと映画として本質的なものだ。つまり編集である。
マイケル・ベイという映画作家は、意識的に「シーンを繋ぐ」ということを放棄してるんではないだろうか。そもそもモンタージュというものは、教科書風に言えば「予め撮影された素材を解体し、論理的に再構成する」と云う作業なはず。
しかし、彼の作品は致命的にその論理性が破綻しており、演出する者として観客に最低限伝えなければならない「時間の経過」や、「キャラクターの位置関係」を、ぜーんぜん提示できていないのである。
ほとんどジャンプカットのように寸断なく(あるいは脈絡なく)シーンが切り替わっていくのは、マイケル・ベイがエモーションという甚だ頼りない己の嗅覚を拠り所にして、映画を構築しているからではないかと推察する。
ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンのラブシーンを情感たっぷりに描くことはできても、二人の感情が高まっていく過程は何一つ提示することはできない。観客は緩急のないジェットコースターに手足を縛られたまま乗り込まされ、2時間のあいだ一定した上下運動に身を投じるのである。
『アイランド』は、カット至上主義の作品だ。どのフレームを切り取っても、ドラマチックでダイナミックな画として成立してはいるものの、逆に言えば、ストーリーをスライドショー形式でしか語れていない。それを映画と呼ぶには、僕は大きなためらいを感じてしまう。
- 原題/The Island
- 製作年/2005年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/136分
- 監督/マイケル・ベイ
- 製作/マイケル・ベイ、イアン・ブライス、ウォルター・F・パークス
- 製作総指揮/ローリー・マクドナルド
- 原案/キャスピアン・トレッドウェル・オーウェン
- 脚本/キャスピアン・トレッドウェル・オーウェン。アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー
- 撮影/マウロ・フィオーレ
- 美術/ナイジェル・フェルプス
- 衣装/デボラ・リン・スコット
- 音楽/スティーヴ・ジャブロンスキー
- ユアン・マクレガー
- スカーレット・ヨハンソン
- ジャイモン・フンスー
- スティーブ・ブシェミ
- ショーン・ビーン
- マイケル・クラーク・ダンカン
- イーサン・フィリップス
- グレン・モーシャワー
- ショウニー・スミス
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