映画というメディアを利用した、ラース・フォン・トリアーによる過酷な臨床実験
ラース・フォン・トリアーによる大胆な挑発は続く。『マンダレイ』(2005年)は、『ドッグヴィル』(2003年)で提示した「力は行使されるべきもの」というアイロニカルなメッセージをさらに一歩押し進め、さらに執拗に、さらに底意地悪く、さらにサディスティックに鑑賞者の倫理を揺さぶってくる。
頭が割れそうだよ、兄さーん!ここまで来ると、映画というメディアを利用した、臨床実験のような気もしないでもない。無論、被験者は我々自身だ。ダニー・グローバーは映画のなかで、何度も「準備ができていない」とつぶやく。
それは元奴隷たちに民主主義が滲透する準備なのだろうし、アメリカが黒人を一般市民として迎え入れる準備なのだろうし、そして何より我々人類が民主主義を機能させるに充分な民度を獲得するまでの準備なのだろう。
かつてフランスの哲学者サルトルは、「人間は自由という名の刑に処せられている」と語ったそうだが、『ドッグヴィル』ではその言葉が直裁に響き渡る。
精巧に造られたマネキンのごとく、非の打ちようがないくらいにクール・ビューティーぶりをみせつけたニコール・キッドマンにかわって、今回グレースを演じるのは、ブライス・ダラス・ハワード。
映画監督のロン・ハワードを父に持つこのサラブレッドには、無垢な処女性が息づいているが、『マンダレイ』ではこのイノセンスが必須のファクターなのだ(ニコール・キッドマンに処女性なんぞ求められない!)。
人種差別は唾棄すべきものと考えるこの崇高なリベラリストは、黒人奴隷のイザック・ド・バンコレに犯されることによって、肉体的には陵辱されるものの、精神的な充足感を得る。
しかし、気高く高潔であったはずのこの若者は、実は二枚舌の愚劣な利己主義者で、その結果グレースは肉体的・精神的な痛みを負うことになる。
そう、ラース・フォン・トリアーが常に映画に求めたものは、「肉体的な痛み」なのだ。彼女の理想主義が愚かにも崩壊する過程において、肉体的に陵辱されることは必要不可欠。前作『ドッグヴィル』でもニコール・キッドマンはレイプ三昧の日々を送らされたが、それはもはや植物的、受動的な存在でしかなかった。
『マンダレイ』では、より積極的な意思のもと、処女の肉体が犯されるというビジョンが必要だったのだ。そういう意味で、明らかに受け身顔のブライス・ダラス・ハワードの起用は成功だったんではないか。ニコール・キッドマンじゃ、自分から腰振りそうな勢いだしね(偏見)。
ラース・フォン・トリアーによる大胆な挑発は続く。アメリカ合衆国ツアー、その最終ゴールは『ワシントン』である…。
- 原題/Manderlay
- 製作年/2005年
- 製作国/デンマーク
- 上映時間/139分
- 監督/ラース・フォン・トリアー
- 脚本/ラース・フォン・トリアー
- 製作/ヴィベク・ウィンドレフ
- 製作総指揮/ペーター・アールベーク・イェンセン、レネ・ボルグルム
- 撮影/アンソニー・ドッド・マントル
- 衣装/マノン・ラスムッセン
- 音楽/ヨアキム・ホルベック
- ブライス・ダラス・ハワード
- イザック・ド・バンコレ
- ダニー・グローバー
- ウィレム・デフォー
- ジェレミー・デイヴィ
- ローレン・バコール
- クロエ・セヴィニー
- ジャン=マルク・バール
- ウド・キア
- ジニー・ホルダー
- エマニュエエル・イードーウ
- ジェリコ・イヴァネク
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