デビルマン/永井豪

改訂版デビルマン(1) (KCデラックス)

純粋な愛を、暴力で昇華。永井豪が突きつける、超鬼畜系カタストロフ

「正義の味方」という言葉はひどくトリッキーである。なぜなら、「正義の味方」とは「人類の味方」であり、即ち人類=正義という方程式が前提だからだ。

『デビルマン』(1972年〜1973年)主人公・不動明は、人間の身体に「悪魔」を宿した人類の敵である存在である。しかし、彼は仲間を裏切り、人類のために「悪魔」と闘う。この倒置法の逆転こそが、「デビルマン」という異質な物語のキーワードである。

しかし永井豪は、不動明を安住の地に永くとどまらせはしなかった。物語は、デーモンがその存在を知らしめる「アルマゲドン」に突入するや急加速を始める(いや、急カーブか?)。

デーモンの存在を知った人類はパニックをおこし、お互いがお互いを信じられないという、疑心暗鬼に満ちた状況が生まれてしまう。そして遂には、「悪魔狩り」と称した「人間狩り」を始めるに至るのだ。

…そういえばピーターこと池畑晋之介が、昔「人間狩り」という物凄い歌を唄っていたが、それは本文と全く関係ないので割愛する。

んでもって、「悪魔狩り」という名のもとに同胞を大量殺戮する地獄絵図をみた不動明はショックをうけてしまう。俺が今まで人類のために闘ってきたのは何だったのだ?

正義と信じていた人類は、実はデーモン以上の悪魔ではないのか?不動明の叫びは爆発する。ここで人類=正義という方程式は完全に崩壊するのだ。

まさに超鬼畜系カタストロフ。『ハレンチ学園』(1968年〜1972年)や『けっこう仮面』(1974年〜1978年)に代表される、超変態漫画を描いてきた永井豪とは思えぬハードボイルドな展開に、読み手は思考停止を余儀なくさせる。

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闘う意味を喪失した不動明は、その意義を牧村美樹という女性に求める。美しく可憐な彼女を守ることこそが、不動明=デビルマンの存在意義。愛だ!俺は愛の為に闘うのだ!しかし永井豪は、そんな安易な救済で物語を収束させはしない。

牧村美樹とその家族も、「悪魔狩り」によって人類に虐殺されてしまうのである(目をそむけたくなるようなこの虐殺シーンに、数十ページを要して丹念に描いた永井豪は絶対サドだと思うのは僕だけだろうか)。

愛する恋人の生首を抱えながら、「おれはもう何もない…生きる希望も…生きる意味さえも…」と悲嘆にくれるシーンは、日本のマンガ史上でも、最もショッキングな場面だ。

全てを失ったデビルマンは、悲しみと怒りにまかせてデーモンとの全面対決をたたきつける。かつてアクション漫画で、その「闘う意味」を剥奪された漫画があっただろうか。

両性具有のデーモン、飛鳥了が不動明と対決しなければならないというパラドックスも、不動明が闘いの末に求めたものも、すべては至高の愛に昇華していった。

正義と悪という本来なら二律背反として存在すべきモチーフも、この作品ではその意味を喪失してしまっている。『デビルマン』はあまりにも純粋な愛を、暴力的に描いた作品だ。そして読後には、寂寥とした悲しみと切なさが迫りくる。

DATA
  • 著者/永井豪
  • 発表年/1972年〜1973年
  • 掲載誌/週刊少年マガジン
  • 出版社/講談社
  • 巻数/全5巻

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