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『ファントム・スレッド』(2017)愛と支配はなぜ“毒”へ変わるのか?

『ファントム・スレッド』(2017)
映画考察・解説・レビュー

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『ファントム・スレッド』(原題:Phantom Thread/2017年)は、1950年代ロンドンの高級仕立屋〈ハウス・オブ・ウッドコック〉を舞台に、完璧主義の天才デザイナー、レイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)と、彼に見初められた若き女性アルマ(ヴィッキー・クリープス)の愛と支配の関係を描く心理ドラマ。監督は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』などで知られるポール・トーマス・アンダーソン。第90回アカデミー賞では衣装デザイン賞を受賞、作品賞・監督賞・主演男優賞など主要6部門にノミネートされた。

支配と依存、制度と欲望、愛の歪な力学

ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は、デビュー以来一貫してアメリカ映画の可能性を拡張してきた。

『ハードエイト』(1996年)に始まり、『ブギーナイツ』(1997年)でポルノ業界の群像を描き、『マグノリア』(1999年)で人間関係の偶然性と運命を交錯させ、『パンチドランク・ラブ』(2002年)ではオフビートな愛の形式を掘り下げた。

2000年代後半には、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)で資本主義の成立史を血と暴力の寓話として描き出し、『ザ・マスター』(2012)ではカリスマと信者の心理戦に迫った。そして『インヒアレント・ヴァイス』(2014)では70年代L.A.を舞台に、幻覚的ノワールの迷宮を試みる。

その流れの先にある『ファントム・スレッド』(2017)は、一見すると過去作のどの路線にも属さない“異物”に見えるかもしれない。だが実際には、PTA映画史における主要なモチーフ――支配と依存、制度と欲望、愛の歪な力学――を凝縮した作品となっている。

制度の暴力から愛の暴力へ

ポール・トーマス・アンダーソンは、自身の妻でコメディアンのマーヤ・ルドルフが病気で寝込んでいるときの体験をきっかけに、この映画の発想を得たという。病床に横たわる彼女を看病しながら、「人は弱ったときに初めて相手に心を開き、支配の均衡が反転する」という関係性の秘密に気づいた。

あのとき僕は病気で寝込んでいて、妻(女優のマーヤ・ルドルフ)が看病してくれていたんだ。すると、ある瞬間から想像力が勝手に動き出したんだよ。彼女が僕をとても優しく、愛情を込めて見つめていて……ふと思ったんだ。「このまま僕を病気のままでいさせる方が、彼女にとって都合がいいのかもしれない」って。

(中略)それを少し悪戯っぽく、ユーモアを交えて描くことができれば、長い関係の中で起こる〈支配と依存〉のバランス、つまり男女の力関係の話になると思ったんだ。芸術家とミューズだけの関係に限らない、もっと普遍的な話としてね。
(Rolling Stoneのインタビューより抜粋)

つまり『ファントム・スレッド』は、看病というきわめて日常的で親密な行為を起点に、愛と権力の哲学的問いへと拡張された作品なのである。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』が資本主義の生成に潜む暴力を描いたように、『ファントム・スレッド』は愛そのものを「制度」として描き出した。

愛は自由でも救済でもなく、支配と服従を生み出す構造。レイノルズは芸術的権威と男性的権力のもとにアルマを従属させようとするが、アルマは毒を盛ることでその秩序を転覆させる。そこには「権力は常に関係性の中で生成され、やがて逆転する」という権力論が透けて見える。

プレインビューが石油を掘削しながら資本の亡霊に憑かれていったように、レイノルズは愛という制度に憑かれ、その制度に身体を捧げる亡霊となる。

PTAの作品群は一貫して「制度がいかに人間を媒介にして作動するか」を描いてきたが、本作はその問いを最小単位=愛の二人関係へと還元した哲学的実験なのだ。

アルマが毒を盛り、レイノルズがそれを知りつつ受け入れる場面は、フロイト的な「エロスとタナトス」の結合を想起させる。ここでは、愛は死の欲動と結びついて初めて持続可能になる。

つまり、彼は死に近づくことでしか、彼女との関係を保てない。生の充実は破滅への欲望と不可分であり、愛はその最も濃密な形態として「自己破壊」を呼び込むのだ。

『ファントム・スレッド』は単なるラブストーリーではなく、愛と死が相互依存する人間存在の根源的パラドックスを映画的に表現した哲学的寓話(変態成分多め)なのだ。

群像劇から二人芝居へ

『ブギー・ナイツ』や『マグノリア』に代表される初期PTAは、ロバート・アルトマンを想起させる群像劇を志向していた。そこには、多数の人物が交錯し、偶然や宿命によって人生が連鎖するドラマ構造があった。

しかし『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で彼はその手法を封印し、一人の石油成金の執念を徹底して描き切る。プレインビューという一本の力線が、地層(資本)と教会(信仰)を貫通した。

群像の総和ではなく、ひとつの意志が空間を幾何学的に整流することで、時間は引き延ばされ、ショットは長く重くなる。ネットワークの“面”が、一人の執念という“矢印”に還元された転回点だ。

その転回の“蝶番”が、『ザ・マスター』。ここでは師(ドッド)と徒(フレディ)の二項関係に、三番目の力(ペギー)が干渉する〈三角型〉が浮上する。権力は関係の外にあるのではなく、二者のあいだで生成されるのだ。PTAの関心はすでに“社会の総体”よりも関係の物理へと収束している。

『ファントム・スレッド』も同じく、物語はレイノルズとアルマという二人の関係に収斂する。群像の広がりを捨て、濃密な二人芝居の緊張感へと向かう流れは、PTAの作劇が「外的社会から内的関係性」へとシフトしていることを物語っている。

注目すべきは、二人芝居が純粋な二項対立に見えて実は“第三項”を内在させていること。シリル、アトリエの規律、階段や食卓の動線、そして“家”そのものが、法/超自我として関係を調停し、緊張を持続させる。

『マスター』の三角関係は外在していたが、『ファントム・スレッド』では第三項が空間と規範として二者に憑依している。二人芝居は舞台劇的だが、その実体は空間に埋め込まれた制度劇なのだ。

『パンチドランク・ラブ』、『ザ・マスター』との連続性

『ファントム・スレッド』は『パンチドランク・ラブ』の変奏として読むこともできる。両作とも、奇妙な愛の力学によって暴力性を孕む男性主人公が「救済」される物語だからだ。

だが両者には決定的な違いがある。『パンチドランク・ラブ』の愛は甘美でポップな解放として描かれるのに対し、『ファントム・スレッド』の愛は毒と支配の相互依存として持続する。

PTAは15年の歳月を経て、「愛は人を救う」というロマンティシズムを反転させ、「愛は互いを窒息させることでしか続かない」という冷酷な真理に到達した。

また、『ザ・マスター』で提示された「カリスマと信者」の力学は、本作では「芸術家とミューズ」の関係に置き換えられている。ランカスター・ドッドとフレディの主従的な絆は、そのままレイノルズとアルマの支配と依存に重ね合わせることができるだろう。

PTAが長年探求してきた、人間関係の権力学。師弟・資本・宗教といった大きな制度を経由したのち、『ファントム・スレッド』ではついに愛という最小単位にまで還元された。

こうして見ると『ファントム・スレッド』は、PTAのフィルモグラフィー全体を踏まえて初めてその恐ろしさを理解できる。群像から二人へ、資本から愛へ、制度の暴力から私的関係の暴力へ。

彼が一貫して描いてきたのは「人間を超えて作動する力の構造」であり、『ファントム・スレッド』はそれを最もミニマルかつ濃密に結晶化した作品なのだ。

DATA
  • 原題/Phantom Thread
  • 製作年/2017年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/130分
  • ジャンル/ドラマ
STAFF
  • 監督/ポール・トーマス・アンダーソン
  • 脚本/ポール・トーマス・アンダーソン
  • 製作/ポール・トーマス・アンダーソン、 ミーガン・エリソン、 ジョアン・セラー、 ダニエル・ルピ
  • 製作総指揮/アダム・ソムナー、 ピーター・ヘスロップ、 チェルシー・バーナード
  • 撮影/ポール・トーマス・アンダーソン
  • 音楽/ジョニー・グリーンウッド
  • 編集/ディラン・ティチェナー
  • 美術/マーク・ティルデスリー
  • 衣装/マーク・ブリッジス
CAST
  • ダニエル・デイ=ルイス
  • ヴィッキー・クリープス
  • レスリー・マンヴィル
  • カミーラ・ラザフォード
  • ジーナ・マッキー
  • ブライアン・グリーソン
  • ハリエット・サンソム・ハリス
  • ルイザ・リヒター
  • ジュリア・デイヴィス
FILMOGRAPHY