一本気で純粋な直情性と、壊れやすいナイーブネスが同居したジャズ・アルバム
僕がチェット・ベイカーという名前を知ったとき、彼はすでにアムステルダムのホテルの窓から転落死して、この世から去っていた。だから、彼がウエストコーストを代表する希代のトランペッターである、というベーシックな知識も最初は全然持ち合わせていなかった。
最初は、中性的かつ都会的な歌声で世の女性たちをトリコにした、職業歌手だと思い込んでいたくらいだ。それだけ彼の艶のあるヴォーカルは、僕の耳には新鮮に飛び込んできたんである。
『Chet Baker Sings』(1956年)はヴォーカリストとしての名声を押し上げた代表的名盤だが、とにかく1曲目の『That Old Feeling』からウキウキさせられた。
この曲は、ミュージカル映画 『Vogues of 1938』(1937年)の主題歌として、アカデミー賞にノミネートされるほど有名なスタンダード・ナンバー。
アップテンポなリズム・セクション、スウィンギーなピアノにのせて、チェット・ベイカーはスウィートネスをたっぷりきかせたヴォーカルを披露する。だが本当に僕が彼の歌声に惹かれたのは、どこか湿り気のある歌声であり、心の奥にそっと閉じ込められた鬱屈としたエモーションなのだ。
『That Old Feeling』は、「ダンスパーティ出かけると元カノがいて、もうすっかり忘れていたハズなのに、彼女の隣で踊るとあの頃のホットな感情が蘇ってくる…」という青春ど真ん中な歌詞。
しかし、この曲をチェット・ベイカーが歌うと、途端にセンチメンタルな心象風景が立ち上り、ユースフル・デイズ特有の苛立ちや痛みが突き刺さってくる。
若くしてジャズ・ミュージシャンとして成功しながらドラッグに溺れ、身も心もすり減らすかのような20代を送ってきた彼にとって、“青春”とはかくもスウィート&ビターな日々だったのかもしれない。だから彼の歌声には甘くてほろ苦い、まぎれもない“青春”の香りがする。
涼しげな瞳をたたえたまま彼が喉を振わせる時、世界はゆっくりと静止し、その声に耳を傾ける。だがその歌声は霞のようにゆっくりと、澱のように沈殿していく。
チェット・ベイカーは、永遠に青春時代を生きることを宿命付けられた存在だ。フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンも取り上げた名曲中の名曲、M-10『My Funny Valentine』をチェット・ベイカーが歌うと、セピア色に包まれたリリシズムが全体を包み込む。
かのジョアン・ジルベルトがこのナンバーを聴いて衝撃を受け、大名盤『Getz/Gilberto』を製作するに至ったというのは、あまりにも有名なエピソードだ。
マイルス・デイビスのようにビブラートを多用した演奏とは異なり、チェット・ベイカーのトランペットはとても開けっぴろげで、澱みがない。僕はそこに、ある種の不器用さとモロさを感じる。
一本気で純粋な直情性と、ガラス細工のように壊れやすいナイーブネスの同居。彼がこの世を去ったのは59歳という若さだったが、それでも長く生きすぎたんじゃないか、というような気もする。
彼はそのグッド・ルッキングで、“ジャズ界のジェームズ・ディーン”とも称されたが、ジェームズ・ディーンがこの世を去ったのは24歳だったのだ。
- アーティスト/Chet Baker
- 発売年/1956年
- レーベル/Pacific Jazz
- That Old Feeling
- It’s Always You
- Like Someone in Love
- My Ideal
- I’ve Never Been in Love Before
- My Buddy
- But Not for Me
- Time After Time
- I Get Along Without You Very Well
- My Funny Valentine
- There Will Never Be Another You
- Thrill Is Gone
- I Fall in Love Too Easily
- Look for the Silver Lining
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