『しとやかな獣』(1962)
映画考察・解説・レビュー
『しとやかな獣』(1962年)は、川島雄三監督が新藤兼人による峻烈な人間観察に基づいた脚本を、団地の一室という「閉ざされた聖域」の中に封じ込めた、戦後日本映画の到達点とも言える社会風刺劇。物語は欺瞞と搾取の果てに、屋上からの墜落という無機質な死へと辿り着く。
「垂直の監獄」としての団地と、密室のカメラアイ
ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019年)よりも半世紀も前に、高層団地の寄生虫(パラサイト)を描いた狂気の映画が存在した。日本映画の異端児・川島雄三監督による、『しとやかな獣』(1962年)である。
舞台は、高度経済成長期の象徴であり、ル・コルビュジエに師事した前川國男が設計した晴海高層アパート。当時は団地族という言葉が生まれ、コンクリートの箱は庶民にとって夢のマイホームだった。
だが、川島雄三監督はここを幸福な家庭の器としては描かない。冒頭、カメラは団地の外観を垂直に舐め上げるようにパン・アップし、無機質な幾何学模様としての窓枠を映し出す。それはまるで巨大な養鶏場か、あるいは現代の監獄だ。
この406号室に住む前田一家(父・伊藤雄之助、母・山岡久乃、息子・川畑愛光、娘・浜田ゆう子)は、一見すると上品で知的な生活を送る中流家庭だ。
だが、その実態はまるで違う。元海軍中佐の父は敗戦を言い訳に労働を拒否し、息子には会社金を横領させ、娘には流行作家の愛人をさせ、その金を巻き上げて生きている。両親は働くことなく、搾取するシステムとしてのみ機能している。
特筆すべきは、この映画のカメラが、ラストシーンを除いて部屋から一歩も出ないことだ。撮影監督・宗川信夫と川島雄三は、狭い2DKのセットの壁を取り払い、天井付近からのハイアングルや、床を這うようなローアングルを駆使して、この密室を多角的に解剖する。
襖やドアによって細かく分断された空間演出は、登場人物たちの精神的な閉塞と、互いに監視し合う共犯関係を視覚的に表現している。観客は、まるで実験動物の飼育箱を覗き込む神のような視点で、この獣たちの生態観察を強いられることになるのだ。
若尾文子の「上昇」と男たちの「下降」──階段の美学
この獣の巣窟に、涼しい顔をして入り込んでくるのが、若尾文子演じる三谷幸枝だ。
彼女は、息子が横領した芸能プロの経理担当であり、愛人でもある。増村保造監督作品での彼女が“情念の女”だとすれば、川島作品における彼女は“無機質なアンドロイド”に近い。
彼女は「しとやかな獣」というタイトルの通り、着物を完璧に着こなし、丁寧な言葉遣いで男たちを懐柔するが、その実体は前田一家の上を行く、完全な捕食者だ。
その関係性は、階段によって完璧に表象される。団地という垂直構造の中で、若尾文子は常に軽やかに階段を「上って」くる。対照的に、彼女に騙され、税務署員としての職務も家庭も捨ててしまう船越英二は、汗だくになりながら階段を「下りて」いく(あるいは踊り場でうずくまる)。
この垂直移動は、単なる物理的な移動ではなく、権力と生命力のヒエラルキー可視化だ。生き生きと上昇する若尾文子(=新しい時代の資本主義的勝者)と、重力に負けて下降する男たち(=古い道徳に縛られた敗者)。
この冷徹な対比こそが、川島雄三のシニシズム。若尾文子の美しさは、ここではエロスとして消費されるのではなく、男たちを踏み台にして高みへと登るための、最強の武器として機能している。
前衛的な不協和音
本作を単なる風刺劇で終わらせず、日本映画史に残る怪作へと押し上げた決定的な要素。それが音と映像の乖離だ。
劇中、息子と娘がテレビから流れる最新のゴーゴーダンスに合わせて、無表情に狂ったように踊り出すシーンがある。だが、そこで流れる音楽は、ロックではなく、能楽だ。
作曲家・池野成が仕掛けたこの音響演出は、観る者の脳髄を直接揺さぶるような不快感と高揚感を与える。鼓と笛の鋭い音が「イヨォ〜ッ、ポン!」と響き渡る中、若者たちが手足を痙攣させるように振り回す。このあまりにもシュールで、前衛的な映像体験!
能楽の謡曲「海人」は、龍宮から宝珠を取り返すために海に潜り、自らの乳房の下を掻き切って宝珠を隠し、命を犠牲にする母の物語。川島雄三は、この高層団地というコンクリートの箱を現代の龍宮城に見立て、そこに群がる人間たちを、欲望の海に溺れる亡者として描いたのだろう。
あるいは、戦中派である父(伊藤雄之助)が抱える、言葉にできない怨念やトラウマが、戦後世代の軽薄なダンスを侵食し、呪いのように絡みついているようにも見える。
この視聴覚の不協和音こそが、高度経済成長という狂騒の正体だ。表面上は豊かになり、モダンになった日本。だが、その精神の底には、まだ古来のドロドロとした情念や、解決されていない戦争の傷跡が渦巻いている。
川島雄三は、本作公開の翌年、45歳の若さで急逝する。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の進行に怯えながら撮られた本作は、近代化する日本社会に対して彼が突きつけた、もっとも知的で、もっとも野蛮な遺言状だ。
- しとやかな獣(1962年/日本)
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