2017/10/27

『プレイタイム』(1967)私財を投じて創り上げた、オール・ハンドメイド・シティ

『プレイタイム』(1967)
映画考察・解説・レビュー

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『プレイタイム』(原題:Playtime/1967年)は、ジャック・タチ監督が近未来的にデザインされたパリを舞台に、観光で訪れたアメリカ人女性バーバラと、仕事の用件で街を歩くユロ氏の行き交う姿を描く。ガラス張りのオフィスやショールーム、混雑する展示会場など、人工的な都市空間の中で人々の動線が交錯し、小さな行き違いが思わぬ混乱へと広がっていく。やがて夜のレストランでは設備不良が重なり、秩序だった空間が騒然とした祝祭へ傾き、登場人物たちは混乱の渦の中をさまよう。

“見る”のではなく“歩く”映画

絵本作家・安野光雅の『旅の絵本』を初めて手にしたとき、ページをめくるたびに知らない国の空気がふっと立ち上がり、名もなき人々の生活が微細な粒子となって流れ込んできた。

そこに描かれた世界は、遠景から近景まで視線が自由に遊び、読者のまなざしが空間そのものを横断していく稀有な体験をもたらしていた。静謐でありながらダイナミックで、絵本でありながら都市観察のアーカイブのようでもあった。

その記憶が、『プレイタイム』(1967年)を久々に観た瞬間、一気に呼び醒まされた。タチの映画は、物語の推進力をほぼ捨て去り、自分の目が“どこへ向かうか”という行為そのものを映画の中心に据える。主役のストーリーを追うのではなく、都市の呼吸を眺める映画。それはまさに『旅の絵本』の“実写版”のように見えた。

ジャック・タチは、自ら演じるユロ氏を画面の片隅に配置し、観客の視線が自由に彷徨う余白を最大限に確保する。誰かをハイライトせず、群衆の中に人物を溶け込ませることで、映画は一本の導線ではなく“視線の迷宮”となっていく。

カメラの位置はあえて固定され、引きの画が連続する。都市の動きが巨大なパントマイムになり、オフィスの照明、ガラス窓の反射、モダンな家具の配置まで、すべてが“都市という機械の精密部品”のように機能する。

この映画が提示するのは、都市を舞台にした群像劇ではなく、都市そのものを主人公とする実験的な空間装置だった。

タチ・ヴィル──18億円が生んだ巨大セットと、モダニズムの夢の残響

『プレイタイム』の最も異様で、最も偏執的な魅力は、パリの街並みがロケではなく“タチの私財18億円を投じた架空都市セット”で構築されている点にある。

タチ・ヴィルと呼ばれるこの巨大セットは、2500平方メートルという狂気じみたスケールを持ち、ガラス、金属、光が反射し合う“モダニズムの実験場”として出現した。そこで働く俳優たちの動きはタチ自身がすべて振付し、都市の機能そのものが精密なパフォーマンス装置になるよう調整されている。

このセットは、未来都市の幻影、均質化された空間の圧迫感、技術化された日常生活のオートメーションを同時に体現する。

清潔で無機質な廊下が延々と連なり、同じような室内がループし、ガラス越しに他者の行動が複層的に映り込み、観客は“本物のパリではないパリ”の中を彷徨う感覚を味わう。都市の人工性をここまで露骨に提示し、しかもその人工性を祝福するように撮影した映画は、当時どこにも存在しなかった。

タチが抱いていたのは、“映画とは巨大なアミューズメント・パークを建設する行為だ”という思想だったのだと思う。観客はそのパークに招かれ、都市のリズム、群衆の動き、機械化する社会の滑稽さを横断する旅へと放り込まれる。

タチ・ヴィルは、都市論、建築論、モダンデザイン史に触れる者であれば、何時間でも眺めていられる複雑な構造物であり、映画セットの限界を軽々と飛び越えた“空間芸術作品”の域に達している。

しかしこの壮大な野心は、同時にタチ自身を破産へと追い込む引き金にもなった。興行は惨敗。製作期間2年を費やし、全身全霊で自身の夢を形づくったにもかかわらず、商業的評価は残酷なほど冷たかった。

それでもタチがこの架空都市で過ごした時間は、まさに“プレイタイム”そのもので、映画の外側にある彼自身の幸福の総体がそこには確かに宿っている。

都市の祝祭と破綻──群衆が奏でる“プレイタイム”の真相

映画終盤、未来的レストラン「ロイヤル・ガーデン」で繰り広げられる大宴会は、『プレイタイム』という作品が目指していた核を最も雄弁に語るシークエンスだ。

新築のレストランはすべてが未完成で、椅子は壊れ、床は剝がれ、スタッフの動きは混乱し、客たちは夜明け近くまで騒ぎ続ける。完璧さを目指した空間が崩れ、壊れ、混沌のリズムを取り戻す。この崩壊こそが、タチがモダニズムへ向けた最大の批評だった。

均質化された都市は、あらゆる個性を削ぎ落とし、機械のように規律化された行動を要求する。しかし壊れた椅子、破れた床、混乱する厨房が生む“ノイズ”によって、空間は再び人間的な秩序を取り戻していく。

機械化された都市が人間を規定するのではなく、人間の無秩序な振る舞いが都市を再構築していく。このシークエンスの奥底にあるのは、機能的な空間が最終的に“人間の揺らぎ”を受け入れてしまうという構造の逆転だ。

ロータリーをメリーゴーラウンドのように車が回転するショットも象徴的だ。交通という都市機能が、一瞬だけ遊具のように見える。都市の制度が遊戯に、秩序が祝祭に、効率が無意味な楽しさに転じる。そこに宿るのは、文明批評的でもあり、同時に純粋な笑いでもある。

蓮實重彦が書いた「無言のタチは、何食わぬ素振りで、画面一杯に映画を炸裂させる。この魔術に、抵抗は無用だ」という名言は、誇張ではない。タチの映画は、爆発ではなく“散乱”する。

物語ではなく、空間そのものが軋み、きしみ、変形しながら、観客を都市の中心へと誘う。『プレイタイム』は、都市の観察、設計、演出、そして祝祭のすべてを内包した、映画史でも特異な位置にある作品だった。

タチが作り上げたこの架空都市は、観客に“歩き回る権利”を与え、映画の中の都市を自在に回遊させる。破産という結末があったにせよ、彼が自身のアミューズメント・パークに全身で浸っていた時間は、紛れもなくプレイタイムそのものだったのだ。